ダーウィン・サイエンス と ディバイン・サイエンス

  • 2013.12.17 Tuesday
  • 00:17
 ダーウィン・サイエンス・・・私の造語です。


私の中の私が、もっと思考の飛躍をしたい!と提案した造語です。


約150年ほど前の19世紀に書かれた『種の起源』を起点として、

今私たちが目にする”科学”、あるいは大学で扱われている”学問”は、

その土台をダーウィニズムにもっています。


ですから、現在”科学”と呼ばれているもの全てが、

私にとっての「ダーウィン・サイエンス」にあたるかもしれません。



このダーウィン・サイエンスでは、人間も、この宇宙も、

全てのものが”突然”に、”偶然”に、”なげだされた存在”として始まります




これだけの法則性に満ちた世界が、本当に”偶然”の所産として存在できるのでしょうか?



150年もの間、優れた科学者や思想家が数多くいたにもかかわらず、

何故、私のような疑問を持つことがなかったのでしょうか?そんなはずはありません。


なにか、その陰にトリックがあるように思えます。


ましてや、ナポレオン・ヒル著『悪魔を出し抜け!』などを読んでいると、

ダーウィニズムそのものが、トリックであるようにも思えてきます。




「進化」という考え方を否定しているのではありません。

「進化」という方向性が、偶発的な条件だけで進んでいって、

本当に「進化」といえるプロセスを行うことが可能なのか・・・と思うのです。


今、目の前に起こった事柄に、出たとこ勝負的な対応が「進化」である可能性を

信じることが出来ません。



私にとっての「進化」とは、人間の知能では計り知れない遠大な計画性に満ちて、

常に俯瞰的な評価をあたえられるなかに、最善を求めて進んでいくようなものであると

考えています。



宇宙そのものを創造できるレベルの神の存在前提にすることができれば、

その宇宙に遍満する法則性から、込められた意図を読み取り、

「進化」の方向性を導き出すことも可能だと信じます。



そして、この宇宙そのものを創造できるレベルの神の存在前提にした科学を

ディバイン・サイエンスと名づけてみます



未だ名前だけの存在ですが、私の思考の中で雄大な空間をつくっていくのが

感じられています。




     *注)成功哲学のジョセフ・マフィー神父で有名なディバイン・サイエンス・チャーチとは
         全く関係がありません。


ダーウィン・サイエンス と ディバイン・サイエンス 2  

  • 2013.12.18 Wednesday
  • 23:37
 
昨日から「ダーウィン・サイエンス と ディバイン・サイエンス」というテーマで

考えています。


ダーウィン・サイエンス〜私の造語〜を定義すれば、

「ダーウィンの『種の起源』を出発点として、物質的に確認できるもの〜

例えば、発掘や実験的な証明〜だけを事実として扱う”帰納法”的な価値観」を

”常識”とする科学。・・・です。


帰納法を例えていえば、梯子の一番下から順々に上っていく、誰にでも分かり易い方法です。

その方法自体は、堅実で、社会への適合性に優れている。と認めます。


けれども、ダーウィン・サイエンスである限り、その思考の原点は「偶然」や「」でしか

ありえません。


科学である以上、前提が同じであれば、その後のあらゆる事実への解釈も、

ひとつの方向性に限定される”という約束事があります。


私たちがそれぞれに自分の意思で科学的思考をしているように思っていても、

ダーウィンによって偶然掛けられた、”同じ梯子”を上っているだけのように思います。

その”同じ梯子”の”違う段”からみえる光景を、様々に自己表現しているように感じます。

あるいは、”同じ梯子”とは”同じ言語”という意味であるかもしれません。

様々な視点からコミュニケーションするためには、”同じ言語”を持たなければ

仲間にはなれない。という現実があるのかも知れません。



仲間にはなれない。つまり、村八分という”仕置き”は、ダーウィン存命中もウォレスに対して

十分に活用されました。ただ、ウォレスは自分の科学的信念を曲げませんでしたが・・・。



ウォレスが信じた科学的信念は、「霊的高次元と物質的3次元の融合による科学」の

発展を目指すこと
だったと、確信しています。


ウォレスは、あえて”神”という言葉を使いませんでしたが、それは彼が生存し、活躍していた

19世紀のイギリス社会にとって、”神”という言葉にはキリスト教の宗教観以外の理解を

受け入れることが出来なかったからでしょう。


さらに、ウォレス生存中には、未だ宇宙創造を成しえる存在を次元的に表現できるだけの

数学的な探求は出来ていませんでした。

今なら、少なくとも20次元あるいはそれ以上の次元存在であると定義することができます。



そして、私達人間には計算は出来ても、その実態を想像することができない”未知の叡智”を

”証明”によってではなく、”直感的確信”によって受け入れることの出来る者が、

ディバイン・サイエンスを探求することができる
のだと考えます。




人は、自らの見たいものを見、聞きたいものを聞く。

これは、私が実感している、私にとっての真実です。


私は、ディバイン・サイエンスという”新しい出発点”から見えるものを見、

聞こえるものを聞き取っていきたいと、強く希望しています。


そして、そのひとつでも多くのことを、1人でも多くの方々と共有していくことを

夢見ています。



ダーウィン・サイエンス 〜無に始まって、無に終わる〜

  • 2013.12.20 Friday
  • 22:20
 
ダーウィン・サイエンス(私の造語)を もう少し考えてみます。



例えば、「宇宙の始まり」・・という遠大なテーマの場合でも、

ダーウィンの進化論を起点とした思考では「現在だけが過去よりも

優れている
」という発想になりますから、過去様々に考えられていた

神話的「宇宙の始まり」に関する思考は、全て”稚拙”であるか、または”荒唐無稽”で

”非科学的”な”迷信”と切り捨てられています。



けれども、その「最も優れている現在」のダーウィン・サイエンスがたどり着く結論は、

全て「無から始まり、無に終わる」という3次元物質的な事実の羅列しかありません。


つまり、宇宙はひとつの点からビックバンによって始まったが、それ以前にその点には

”何もなかった”。



と同時に、「宇宙は法則」に満ちている。そして、その”法則の探求”が

人間の知性の求めるところです。



では、その”何もない=無”の点から始まったものに、どのようにして法則性が

もたらされるのでしょうか?


”無”は、本当に法則を産み出す力をもっているのでしょうか?

”無”と”偶然”から、この宇宙を統べる法則をつくる力がどのようにもたらされるのかを

ダーウィン・サイエンスは解明することができるのでしょうか?



私にとっては、「法則が世界を産み出す」と考える方が簡単です。

そして、その法則をもたらしているものを”神”と呼ぶことに、希望を感じます。



ダーウィン・サイエンス 〜時系列だけの進化説〜

  • 2013.12.21 Saturday
  • 23:44
 
今日も”ダーウィン・サイエンス(造語)”です。


ダーウィン・サイエンスの最も”頑強な点”は、時系列的な進化以外の思考や発見を

徹底的に黙殺または否定していく態度
にあります。


私から見れば、あたかも”時系列的な進化”以外を認めないことが、

科学的であると信じているように思えます。


世界中では、”ダーウィン・サイエンス”的には解明不可能な物体などが

かなりの頻度で見つかっています。

けれども、その中にどれ程の科学的研究対象が存在していたとしても、

ダーウィン・サイエンスの定義に適合しない存在は、存在自体が”黙殺”されています。

そして、何事もなかったかのように・・・・また”時系列的な進化モデル”を構築して発表します。



特に、残念なことですが、日本はその傾向が強烈!だと感じています。



余談ですが、この点は・・・「さようなら文化」とでも名づけたい傾向性です。


渡辺昇一先生のご著書で知ったのですが、英語やドイツ語では、

今から分かれる人に向けて「神があなたと共にありますように・・」

という内容が「グッドバイ(ゴッド バイ)」です。


一方日本では、お城での勤めを終えた侍達が、自分の左側に座している”目上”の

行動をキッカケに「左様がご退席なさるなら・・・私も・・・」といって

おもむろに立ち上がる、その挨拶が「さようなら」。


「さようなら」つまり、左向け左!のときに1人でも反対を向くことを許容しない、

一糸乱れぬチームワークが日本のダーウィニック・サイエンスに根付いている感じです。


皆が”左(目上)の人”の動向をうかがいながら、自分がはみ出すことに恐怖感を

植えつけられているのかもしれませんね




そのほかにも、この時系列以外の進化を認めない!という態度の中に、

実は「人種差別」の火種がくすぶり続けています

つまり類人猿から先は、”有色”→”白色”への進化となりますから、

日本人も含めて”有色人種”は人間として未完成な状態であることになるのです。

たしかに、白人種にとっては”好都合”な説ではありますが、

過去の奴隷制、植民地、そして、第二次大戦中の日本への原爆投下と東京大空襲なども、

その根底にはダーウィン・サイエンスの思想的なバックアップがあったことは、

まぎれのない事実であるはずです。




そして、最近は同じ”黄色人種”のなかで、全ての文化は”わが国”から始まった・・と、

いい始めた国がありますが、その主張もダーウィン・サイエンスの思想がなければ

成り立たない主張なのです。



私達が、ダーウィン・サイエンスの思想から”独立”しなければ、

本当の意味での”思考的自由”はありえない。・・というのが、現実です。



少なくとも私は、ディバイン・サイエンスの立場から、

日本という国が約1万年あるはそれ以上の綿々と続く歴史を有した文化的大国であると

考察しています。




ダーウィン・サイエンス と ディバイン・サイエンス の 「定義」

  • 2014.01.07 Tuesday
  • 15:16
 
今年も試行錯誤しながら考えを進めていきます。
よろしくお願いします。
****************

以下の定義を見ていただく前に、ディバイン・サイエンスの立場が

現時点の科学に対する”全面否定”ではない!ことを 明記します


それどころか、科学的発見や発明に対して 憧れと尊敬の念をもってみています。


ただ一点、ダーウィニズムのなかだけで窒息しそうに見える科学を、

自由性」や「可能性」の豊かな”本来の科学”へ取り戻すことができないか!?と、

試みています。 今は、たったふたりの小さな「ピタゴラスの手」ですが、究極は

「科学の開放」 とか 「科学のルネッサンス」とか表現できるようなものを

興すことによって、ダーウィニズムから解き放たれた「新たな身体論」が

常識となることを目指しています。




人は、”同じ事象”から、”全く異なった、あるいは正反対の理解”を導くことができます。

多くは日常のなかで、特に”愛”において見受けられますが、

科学と呼ばれる世界でも、人が思考する以上同じです。


ですから、自分自身が「何を常識としているか?」という自問自答が、

いよいよ必要な時期にきていると思うのです。


前置きが長くなりましたが、以下「定義」です。


<定義>

『ピタゴラスの手:ブログ』で使っている”ダーウィン・サイエンス私の造語)”も

ディバイン・サイエンス”も、その定義は個人的なものですので、改めて表記します

いずれ定義の変更が必要だと思いますが、現時点の考えでまとめました。


*ダーウィン・サイエンスとは、
  
  「ダーウィンの『種の起源』および『人間の由来』からなる進化説を基礎として、
  物質的に確認できるものだけを事実として扱う”帰納法”的な価値観」を”常識”とする科学
  いわゆる現時点(現在)のサイエンス(科学)全般


*ディバイン・サイエンス
とは、

  宇宙自体を創造できる20次元以上にあるであろう
  「宇宙創造の意図」をもった「神」の存在を前提に、
  その「神の意図」である「法則性」を発見・探求する視点から、
  現在までの科学的研究成果を再構築しながら、
  人間および社会の更なる向上・発展をすすめようとする
  過去にもあり、未来を求めるサイエンス(科学)

・・・と ”欲張り”な定義です。


<注1>
英語ディバイン(divine)はヒューマン(human)の反対語でもあります。
語源は、ギリシャ神話のゼウスDeusに由来するそうです。
そこから「神」を指し示す言葉になっています。が、英語圏のdivineはやはりあくまでも
「キリスト教的神」を前提に使われていますので、英語表記のdivine scienceでは誤解を
招く可能性が大きいと思い、カタカナ表記にしています。
また、ディバイン・サイエンス・チャーチとの関係はありません

<注2>
20次元は、現時点で私が知る限り「数学的に証明可能な限界」であることから、
”人智の及ばない存在”である”神”の次元としました。


ディバイン・サイエンス 〜 世界観〜

  • 2014.01.10 Friday
  • 23:17
 
ダーウィニズムを肯定される識者の意見に強く感じることは、

「生物における”自然淘汰”による進化は、事実である」という事象から、

「ダーウィニズムは正しい」という結論が導かれていると思えることです。



”自然淘汰による進化”は、ディバイン・サイエンスであっても認めている事実です。


現に、「ダーウィニズム」という言葉をつくった19世紀自然科学者のA・ウォレスは、

「生物において”自然淘汰”による進化」をダーウィンより数多く採取して証明しています。


けれども、大切なことは「進化の全ては、ダーウィニズムでは説明できない」という

A・ウォレスの結論も、ひとつの事実だということです。

それは、心霊現象を科学的に調査、研究した結果として、”自然淘汰”以外に

進化に関わる”力の存在”があったという事実です。

これらの調査・研究を統合してでてきたものが、浅野和三郎氏のいう「神霊科学」でした。




19世紀当時であっても、わずか10年ほどの期間で”ダーウィニズム”は

科学だけでなく、社会全体を導く”常識”に成長し、21世紀に及んでいます。

ですから、公平で科学的な検証のまえに、”常識”という見えない圧力が覆いかぶさって、

神霊科学は、現時点では「ないに等しい」絶滅寸前の状態です。



このような絶滅寸前の状態をつくっているのは、ダーウィニズムだけの問題ではなく、

心霊を信じている人たちさえも、科学と心霊とを全く別の次元にわけて受け入れている

ことが、貴重な神霊科学を現代の日常生活に応用できない限界をつくっているように思います。




ディバイン・サイエンスは、神霊科学を出発点として、さらに現代科学との融合の可能性を

導き出したいと願うものです。


つまり、現代科学で発見されている様々な事実を、ダーウィニズムの視点ではない

「20次元超の神」を起点とした世界観から再考していくと、何が見えるのか?と思うのです。



もし、”今、証明できない”ということが”ない”ということであるなら、

未来にみえる世界は”ない”ものばかりです。


けれども、まず可能性を受け入れることから始めれば、

未来はとても豊かに”ある”はずです。




ダーウィン・サイエンス と ディバイン・サイエンス の 次元的相違点

  • 2014.01.23 Thursday
  • 01:55
 
1月19日の記事でふれた「ナイト・サイエンス」は、

他の言葉にすれば”直感的科学”といえるでしょう。


アルベルト・アインシュタイン博士も、自身の「感性 あるいは 感覚」によって

あの偉大な理論(複数)が成り立っていると言っています。


アインシュタイン博士に限らず、

ほとんどの偉大な発見・発明は「ナイト・サイエンス」つまり”直感的科学”に支えられ、

「感性 あるいは 感覚」によって偉大な発見がもたらされるようになるために、

多くの偉大な努力と時間を積み重ねていたのだということです。


これは、トーマス・エジソン氏の語った

「99%のパースピレーション(汗) と 1%のインスピレーション(ひらめき)」 そのものです。


では、ひらめきならば何でも”良いもの”なのか?

その1%のインスピレーションが本当に”人類の幸せ”に貢献できるかどうか・・・


これは、かなり検討に時間を要することのようです。



ダーウィン・サイエンスも、始まりは”ダーウィンのひらめき”でした。

と同時に、”ウォレスのひらめき”でもありましたが、

ウォレスはそのダーウィンと同じ”ひらめき”を更に超える”ひらめき”にたどり着きました。



そして、21世紀を迎えた私たちも、ようやく”ウォレスのひらめき”に追いつき、

合流しようとしています。それがディバイン・サイエンスでもあります。




今日のお題は「次元的相違点」としたわけですが、

少なくともダーウィンが、終生徹底的に固執した観点は「3次元」存在です。

そして、この観点はダーウィン・サイエンスに脈々と”今”も息づいています。


何故そう言い切れるかといえば、同時代、「進化」という同じテーマでダーウィンを助けた

ウォレスがたどり着いた「多次元 あるいは 高次元」存在の科学的証明にたいして、

全く取り上げることがないばかりか、否定することでダーウィン自身の地位と名誉を

保持した
からです。


それ以来約150年・・・科学は3次元に”閉じ込められた”のです。




それでも、21世紀が始まる頃から、ようやく「多次元」や「高次元」が

科学の先端に現れてきました。

地下に流れていた伏流水が、あふれ出してきたようなものですが、

逆に言えば、本来ウォレスの「多次元 あるいは 高次元」科学が

150年間の遅れを強いられてきたのですから、この時間的ギャップを取り戻す勢いを

もちたい!・・・・と願っています。





そのために、ディバイン・サイエンスでは20次元超の世界創造の

神的存在を前提とすることで、高次元→低次元 つまり 上→下へ創造される宇宙観を

前提とすることになります。

ここが、ダーウィン・サイエンスと決定的に異なる”相違点”です。





科学的世界観 と イノベーション理論

  • 2014.02.03 Monday
  • 01:52
 
前回1月23日の記事をダーウィン・サイエンスディバイン・サイエンス

次元的相違点と題しましたが、

3次元世界だけの仮説(科学) と 4次元以上の高次元世界を含む仮説(科学)

言い換えることが出来ます。



さらに、もう一度言い換えれば・・・・

水平方向の世界観  と  垂直方向の世界観 と言うことが出来るかもしれません。



実際、ダーウィン・サイエンスだけに「サイエンス」という言葉を適用することを

常識としてしまったことから、それ以外のものは「非サイエンス」または「似非サイエンス」と

して扱われることに甘んじなければならない時代が、現在進行形で150年間も続いているの

ですから、うっかりすれば「ダーウィンの進化説」が”仮説”であること自体を忘れて、

普遍的真実であるかのように思い込んでしまうのも当然です。



ですから、ここでちょっと立ち止まって「本当のところは、どうだったのか・・・?」と

思ってみても損はないはずです。



そもそも、その「本当のところ」自体が知りたいために「科学」と称する「仮説の証明行為」が

存在しているのですから、様々な仮説がそれぞれに科学としての世界観を

自由に論じ合い、刺激しあっても、何一つおかしなことはないはずです。



経済界では”イノベーション”を知らない人は少ないでしょう。


専門ではありませんから”イノベーション”そのものを論じることは出来ませんが、

ドラッガー先生の「体系的廃棄論」にしても、シュンペーター先生の「新結合論」にしても、

今よりもよりよいものを生み出すために常に”常識”の壁を突破するための努力を

求められていることだけは分かります。




私が考えるディバイン・サイエンスは、垂直方向の世界観を持ちますが、

それは水平方向の世界観を否定するものではありません。

先ほどのイノベーションでお話すれば、

まずドラッガー先生の「体系的廃棄論」にならい「ダーウィン的進化論」を廃棄し、

さらにシュンペーター先生の「新結合論」にならって

「水平方向と垂直方向の世界観の結合」をなすと、

そこに「大いなる秩序のもとの自由」が出現するのではないか・・・!と

心から期待しているのです




科学的世界観にも、イノベーション理論はきっと有効であると信じています。




 「カミ ハ シン ダ」?1

  • 2014.03.06 Thursday
  • 23:35

高校に「倫理」という教科が1年間ありました。

今思い返せば、”哲学史”といえるような授業内容であったと思えます。



予習をせずにぶっつけ本番で授業に臨むわけですから、

そのほとんどは忘却のかなたですが、逆に映画でも見ているかのように

鮮明に思い返すことの出来る授業が2つあります。


そのひとつは『無知の知』の”ソクラテス”。もうひとつが”ニーチェ”です。



特に”ニーチェ”には、今も当時と全く同じ感想を抱いたままであることが

自分なりに記憶を鮮明にさせている所以だと思えます。



それが、倫理教諭の口から発せられた

かの有名な「カミ ハ シン ダ」というニーチェの言葉なのですが、

当時、予習もせずに授業に臨んでいた私の耳には

紛れもなく「神 は 真 だ」と聞こえ、そして「そうか・・・」と深く納得したことが

忘れられないのです。


ところが、授業が進むにつれて「神 は 死んだ」としか理解できないような内容に

なっていくことに、反論できないとはいえ、納得できない自分が居続けたわけで、

それが今もって続いています。



特別な信仰をもっていたわけではなかったのですが、

自分にとっては「猿が人間になった」という授業を耳で聞いて、

テストの答案には先生から期待されている答えをとりあえず書き込んだものの

「そんなはずはない」としか考えられない自分の確信が何処から来るのか?・・・

そのことの方が、はるかに興味深い問題のように感じ続けてきたわけです。



そのお陰か、その後になっても”神の存在証明”の是非がついているのか?いないのか?

その結果を知りたくて、耳を立てていたのだと思います。



そして、現時点で行き当たったことは非常に中立ではありますが、

神の存在の証明を成し遂げた者はいない・・・

神の不在の証明を成し遂げた者はいない・・・

そして、そのどちらも正しいのではなく、そのどちらかが正しい・・・



で、自分はどちらを信じるのか?という自己責任であるということです。



そもそも・・・・・

ニーチェ氏にとって「神」の定義は何だったのか?

それは私には解明不可能ですが、一般論的に使われてる「神」という言葉の定義を

考えてみる必要性は十分にあるでしょう。


次は、「神」という言葉の一般的な定義を考えてみます。





「カミ ハ シン ダ」?2 〜一般的「神」の分類〜

  • 2014.03.12 Wednesday
  • 00:56

ちょうど「東北大震災3年目」を迎え、多くの犠牲者の方々と、

未だ故郷に帰ることの許されておられない方々に、心からのお見舞いを申し上げます。

****************


前回から「そもそも・・・・・

ニーチェ氏にとって『神』の定義は何だったのか?

それは私には解明不可能ですが、一般論的に使われてる『神』という言葉の定義を

考えてみる必要性は十分にあるでしょう。

次は、『神』という言葉の一般的な定義を考えてみます。」ということで始めます。



日本語(標準語)の「カミ」というイントネーションには”上”と”神”があります。

古の日本の人々にとって、神=上という認識が明らかにあったのだろうと推察しています。


現在の日本人が、日本語という言語が形成される原点と同じ感性や価値観をもって

日本語を使っているとは考えていませんが、少なくとも言語を形成している

”共通認識”は共有している所が大きいと信じています。



現代の神の定義・・・とはいえませんが、あくまでも私的な視点で『神』と

よばれる条件を分類
してみたのが以下のようなものです。

1)立場

立場上の位置関係が上”というニュアンスで『神』という表現を多様しているようです。

例えば、三波春夫氏の「お客様は、神様です」。ラーメンチェーンの「神座(カムクラ)」。

個人としての個性より、商習慣なども含めて”社会構造”に伴う価値観です。

元々は、神の直系子孫とされる天皇を護衛する役割の武士も、徳川幕府の長となれば

「上様(ウエサマ)=お上(カミ)=武士社会の神」で、「それ以上の者は存在しない」という

婉曲な表現のようです。



2)能力

自分を含む仲間たちより、はるかに優れた能力を持つ人を讃えて「〇〇の神」。

つまり”上”というのは「はるかに優れている」ということで、その人が”神”と呼ばれています。

天才と同義語の部分もありますが、生まれつきの才能だけではなく、膨大な努力精進の果てに

到達した境地に対して「とても追いつくことは出来ません」といった尊敬の表現に思えます。



3)人徳

多くは神社が建ちます

つまり、実際に生きているなかで多くの人々から人徳を讃えられていた方々が、死後にも

その人徳を崇めて『神』として神格化されています。地方には沢山あるでしょう。

例えば、陰陽師の阿倍野清明→清明神社、吉田松陰→松陰神社、明治天皇→明治神宮。



4)祟り(たたり)

3)の人徳の反対で、祟りを恐れる対象も神になり神社が建ちます

怨念が高じて物理的パワーを持つに至った場合は、それを鎮めるために『神』として

神社を建てて祀っています。
荒神・・・といった名前がついたりします。

そういう意味では”天神”つまり菅原道真も”祟り神”でしたが、

今では学業成就の神様として有名になっています。


5)功徳

ある対象に願って、なにか実際に願いが叶った・・・ということで、多くの人々が

”お陰”を感謝したり、さらなる”お陰”を願う対象が『神』となるようです


中には、石だったり木片だったりしたような記述もありますが、

多くは宗教的な信仰とともに存在して、役割担当をもっているようです。

例えば、七福神もそれぞれが具体的な功徳の対象をもっていますし、

観音菩薩も神という言葉では呼ばれませんがキリスト教の7大天使のような立場です。


中には、瞬間功徳といえるような刹那的な成功を求めて危ない信仰もあります。が、

結局は生きている人間の欲心の問題のようです。


6)民族の守護神

民族・・・という考え方も実は難しいものがあるようです。

DNAとはいいきれません。多くの混血が繰り返され、純潔種族などありえません。

それでも、民族といえる統一性が伝承されるとすれば、その根底には宗教があるはずです

あるいは、宗教的同一観念を共有しています。

そして、その同一性をもった人々を中心に援護し、発展に努めてくださる目に見えない存在が

民族神としての『神』であり、宗教でしょう。

たとえば、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、日本神道・・・なども

本来は民族神としての『神』を語っています。

本来の仏陀やイエスにおいては民族神を超えていったと思われます。



7)自然力

特に、自然災害が頻繁な地域では、自然の威力も神として認識されます。

また、自然という表現形のうしろに”大いなる意思”としての『神』を感じています。

つまり、『神』とは自然を動かすに足る力を備えていて、直接に語らずとも

自然というキャンバスに様々に啓示を示している・・・ということになります。

その結果として、大きな被害を伴うような自然災害の発生は「統治者への警告」と

みなされます。



ちょうど「東北大震災3年目」を迎えましたが、当時であるならば民主党政権の方向性に対して

”大いなる意思”が災害という象徴的な警告を示したと考えられるのです


この意図で、当時の東京都知事だった石原新太郎氏が民主党にむけた言葉を

逆手にとって民主党が糾弾していましたが、当時の民主党首相には

本当に責任を取っていただきたい!!次第です。



大まかに7要素に分類してみましたが、現在の巷にある『神』を分類してみたつもりです。

けして、不敬の思いではありません。


次回は、ディバイン・サイエンスの立場から『神』の定義を考えてみます。




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Wornitz

〜ピタゴラスの手 HPより〜 Wornitz(ワーニッツ)を例えて言えば、泥水の入った容器をシェイクするようなものです。暫くするとシェイクされる前と同じように、その中身の比重に合わせて沈殿していきますが、しかし,どこをとっても「以前と同じではない」という状態、すなわち「秩序が変えられた状態」になっています。 泥水と違って私達の身体はもともと「より良くなろう」という性質が備わっており、Wornitz(ワーニッツ)によりシェイクされた後も無秩序に再構成されることはありません。常にベストな状態(秩序)を探りながら構成されていきます。そこに私達人間の素晴らしさを見ることができます。 その性質を最大限に活用させていただくことが、その時々の「最適な秩序」を構成する上でとても大切なことだと言えます。

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