ダーウィン・サイエンス と ディバイン・サイエンス
- 2013.12.17 Tuesday
- 00:17
ダーウィン・サイエンス・・・私の造語です。
私の中の私が、もっと思考の飛躍をしたい!と提案した造語です。
約150年ほど前の19世紀に書かれた『種の起源』を起点として、
今私たちが目にする”科学”、あるいは大学で扱われている”学問”は、
その土台をダーウィニズムにもっています。
ですから、現在”科学”と呼ばれているもの全てが、
私にとっての「ダーウィン・サイエンス」にあたるかもしれません。
このダーウィン・サイエンスでは、人間も、この宇宙も、
全てのものが”突然”に、”偶然”に、”なげだされた存在”として始まります。
これだけの法則性に満ちた世界が、本当に”偶然”の所産として存在できるのでしょうか?
150年もの間、優れた科学者や思想家が数多くいたにもかかわらず、
何故、私のような疑問を持つことがなかったのでしょうか?そんなはずはありません。
なにか、その陰にトリックがあるように思えます。
ましてや、ナポレオン・ヒル著『悪魔を出し抜け!』などを読んでいると、
ダーウィニズムそのものが、トリックであるようにも思えてきます。
「進化」という考え方を否定しているのではありません。
「進化」という方向性が、偶発的な条件だけで進んでいって、
本当に「進化」といえるプロセスを行うことが可能なのか・・・と思うのです。
今、目の前に起こった事柄に、出たとこ勝負的な対応が「進化」である可能性を
信じることが出来ません。
私にとっての「進化」とは、人間の知能では計り知れない遠大な計画性に満ちて、
常に俯瞰的な評価をあたえられるなかに、最善を求めて進んでいくようなものであると
考えています。
宇宙そのものを創造できるレベルの神の存在を前提にすることができれば、
その宇宙に遍満する法則性から、込められた意図を読み取り、
「進化」の方向性を導き出すことも可能だと信じます。
そして、この宇宙そのものを創造できるレベルの神の存在を前提にした科学を
ディバイン・サイエンスと名づけてみます。
未だ名前だけの存在ですが、私の思考の中で雄大な空間をつくっていくのが
感じられています。
*注)成功哲学のジョセフ・マフィー神父で有名なディバイン・サイエンス・チャーチとは
全く関係がありません。
私の中の私が、もっと思考の飛躍をしたい!と提案した造語です。
約150年ほど前の19世紀に書かれた『種の起源』を起点として、
今私たちが目にする”科学”、あるいは大学で扱われている”学問”は、
その土台をダーウィニズムにもっています。
ですから、現在”科学”と呼ばれているもの全てが、
私にとっての「ダーウィン・サイエンス」にあたるかもしれません。
このダーウィン・サイエンスでは、人間も、この宇宙も、
全てのものが”突然”に、”偶然”に、”なげだされた存在”として始まります。
これだけの法則性に満ちた世界が、本当に”偶然”の所産として存在できるのでしょうか?
150年もの間、優れた科学者や思想家が数多くいたにもかかわらず、
何故、私のような疑問を持つことがなかったのでしょうか?そんなはずはありません。
なにか、その陰にトリックがあるように思えます。
ましてや、ナポレオン・ヒル著『悪魔を出し抜け!』などを読んでいると、
ダーウィニズムそのものが、トリックであるようにも思えてきます。
「進化」という考え方を否定しているのではありません。
「進化」という方向性が、偶発的な条件だけで進んでいって、
本当に「進化」といえるプロセスを行うことが可能なのか・・・と思うのです。
今、目の前に起こった事柄に、出たとこ勝負的な対応が「進化」である可能性を
信じることが出来ません。
私にとっての「進化」とは、人間の知能では計り知れない遠大な計画性に満ちて、
常に俯瞰的な評価をあたえられるなかに、最善を求めて進んでいくようなものであると
考えています。
宇宙そのものを創造できるレベルの神の存在を前提にすることができれば、
その宇宙に遍満する法則性から、込められた意図を読み取り、
「進化」の方向性を導き出すことも可能だと信じます。
そして、この宇宙そのものを創造できるレベルの神の存在を前提にした科学を
ディバイン・サイエンスと名づけてみます。
未だ名前だけの存在ですが、私の思考の中で雄大な空間をつくっていくのが
感じられています。
*注)成功哲学のジョセフ・マフィー神父で有名なディバイン・サイエンス・チャーチとは
全く関係がありません。