コラム:科学の神2  〜「隙間の神」〜

  • 2014.02.10 Monday
  • 01:58
 
ソチ五輪も始まりましたが、日本では最も寒いこの時期に受験生たちが

今までの精進の成果を最大限にいかそうと、真剣な取り組みをしています。




五輪選手にしても、受験生にしても、

当然ながら、本人も、そしてその成功を願う家族や恋人などは、

なにかしらの助力を願って「神」に成功を祈っています。




もし本当のところを語れるならば、世の中に”成功”という体験をされた方であれば、

努力の限界の先を求める人であるほど「人事を尽くして、天命を待つ」の気持ちと、

やはり「祈り」を捧げずにはいられない経験をしているに違いありません。



なにかを成し遂げんとするする人は、自分の努力が届くような経験においては、

たしかに情熱といえる”自助努力”を惜しみませんが、

それが一端自分の手の届かない、”自助”しようにも手の届かない状況に置かれた時、

天然自然に”祈り”をささげるものだと信じています。




例えば、宇宙科学にしても、生命科学にしても、

最終的には”祈り”の境地に到達できたものが、本物になっていると言っても

過言ではないと思います。




例えば、アポロ計画だろうと、隼(はやぶさ)だろうと・・・

宇宙という”手の届かないところ”にある存在に、唯一届けることができる、

あるいは繋がりを結び続けることが出来る方法は、最後は必ず”祈り”です。



形として祈ろうとしない人はいても、思いにおいて祈らない人はいない・・・と信じています。

もしかしたら、”祈り”は人間としての”本能”かもしれません


その”祈り”を込める先が「無」であると、”祈り”を込めている人は全く思いもしないでしょう。

”祈り”が真摯であればあるほど、”祈り”の先には見えなくても、確かな存在」が

信じられているはずです。



科学であっても、結局は「人」が思考する”フィールド”であるのです。

その”フィールド”を支えている存在は、人間ではないはずです。

だから、素直に「神」と思うことにためらいは必要ないのではないでしょうか?





昨日も触れましたが、現代で言う「科学」は主として19世紀、ダーウィンたちによって確立された

「自然科学」を祖(おや)として発展してきたために、「自然科学」の世界観が

そのまま「科学」の世界観として常識化しているのだと書きました。

けれども、この「自然科学の世界観」は19世紀当時の西洋社会に生きていた人々の

鬱積した様々な感情を飲み込んで形成された世界観だということを忘れてしまうと、

”流されて”しまいます。


純粋に科学のために出来上がった世界観ではないのです。



いまさら「語ることを許されるなら・・・」などと前置きをおくことも必要ないでしょうが、

純粋に科学のために科学を考える」ことが出来る環境なら、19世紀当時より

現代の方がず〜〜っと優れていると思います。


たとえ、実験科学であったとしても、最終的な段階ではやはり”天命”を待ち、

そして個々の思いの中で”祈る”のだということを知らない科学者はいないでしょう?




結局、科学の中で”神”という言葉を封印した裏には、

人間知における宗教的限界、例えばキリスト教会が科学を不自由にさせてきた歴史が

長かった・・・ということの具体的対応策なのであって、

だからといって”神”そのものが存在していないと、過去の科学のなにものも証明は

していないのです。



今の科学的常識では、神の領域は「隙間の神」といわれていて、

その意味は<科学によって人間が事実を解明していくことで、神の居場所はなくなっていく>

という いとも単純な発想ですが、

それを”事実”とするためには「人間は、全てを知り尽くしている」あるいは

「人間には未知がなくなる」という前提を肯定しない限り、ありえないはずです。



もしこの前提が肯定されるなら、それは即「人間=神」ということになりますから、

それなら宇宙も、世界も、生命も、当然人間が人間になる前に人間が世界を創らなければ

ならない・・・と、私などは考えます。



私には、この考えを受け入れることは無理なので、

私にとっての「隙間の神」という意味は、<人間が現時点で認識できる範囲が

限定されているために、人間によって解明されたことが神の存在を隙間に追いやったように

見えている状態>という解釈
になりました。



ふと、仏の掌を飛行した孫悟空が目の前に見えてきます・・・。



そして、本来の素晴らしい科学者であるならば、

人間が知ろうとして、知りえた!と思ったところから、また次なる未知が見えてくる!という

興奮に立ち会うに違いありません。

だからこそ、そうした多くの科学者達は”神”の存在を否定することなど出来ないのでしょう。



おそらく私の直感的な感想ですが、理論物理学や虚数の数式の世界は

”神の存在”を数字として語っているのではないか?と考えています。



残念なことに、言語が理解できないので、それらが翻訳される日を楽しみにしています。




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Wornitz

〜ピタゴラスの手 HPより〜 Wornitz(ワーニッツ)を例えて言えば、泥水の入った容器をシェイクするようなものです。暫くするとシェイクされる前と同じように、その中身の比重に合わせて沈殿していきますが、しかし,どこをとっても「以前と同じではない」という状態、すなわち「秩序が変えられた状態」になっています。 泥水と違って私達の身体はもともと「より良くなろう」という性質が備わっており、Wornitz(ワーニッツ)によりシェイクされた後も無秩序に再構成されることはありません。常にベストな状態(秩序)を探りながら構成されていきます。そこに私達人間の素晴らしさを見ることができます。 その性質を最大限に活用させていただくことが、その時々の「最適な秩序」を構成する上でとても大切なことだと言えます。

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