コラム:”常識”という”思考的共振フィールド” 〜DVD『奇跡のリンゴ』2〜

  • 2014.02.17 Monday
  • 22:38

日本各地の”大雪”で、思いがけない被害を受けられた方々にお見舞いを申し上げます。

東京方面は未だ降雪の予報が続いています。どうぞ、お気をつけ下さい。

***********

前文中の明日が、3日後になってしまいましたが続けます。


「DVD『奇跡のリンゴ』前記事の終わりに、次は〜”地力”という営み〜と題して、

作品中の”もうひとつの主役”であった”リンゴの木”と”地力”に

フォーカスしてみます。」・・・と結びましたが、

今はもう少し違った角度から試行錯誤してみたいと思っています。






この映画で、主人公・秋則が”自殺”という選択と引き換えに得た「飛躍的!発想の転換」とは、

自分の思考に巣食っている”常識”を破っていくことだった。というところまで書きました。

映画が取り上げている主人公・秋則の思考にも巣食っていた「リンゴ農家の常識」には、

大きく2つありました。


ひとつは、1000年以上も人工的な改良を続けてきたリンゴは、

科学農薬なしには栽培できない。・・・という、リンゴそのものの存在に対する常識でした。

もうひとつは、リンゴ畑の雑草は除去しなければならない。・・・という、リンゴの栽培環境に

対する常識
でした。



この2つが、リアルタイムにリンゴ栽培をしている農家にとっての”常識”つまり

疑い得ない事実”として描かれています。

そして、その2つに逆行しようとする主人公・秋則の熱意と祈りを込めた取り組みは、

”奇行”として近隣のリンゴ農家から排斥される様子がわかります。

何故”奇行”として排斥されたかといえば、彼自身が自己の常識を

刷新するだけの決定的確信に結びつくことができずにいたからだと分かります。

それが、映画では主人公・秋則が有機栽培の確信を確立し、さらなる”奇行”に進むと

彼の”奇行”には求心力が生まれていくのです。



この映画では”リンゴ農家”ですが、そのグループを構成する人々が何であれ

常識”というのは、実際人間の「思考的共振フィールド」と言い換えられるでしょう。

その「思考的共振フィールド」にたてば全く努力することなく、時間という連続性の中で

そのフィールドに立つ全ての人間が思考的共振状態になることが出来るのです


おそらく、この「共振状態」をおこす力は、3次元空間を形成する”法則”として

現存する
ものでしょう。そしてもしかしたら、ナポレオン・ヒル著『悪魔を出し抜け』で

ヒル氏が悪魔からきいた「ヒプノティック・リズム」と同義の法則かもしれないと考えます。




この「共振状態」は、いつの間にか、知らず知らずに、そして確実に作用します。が、

それにも実は条件がありました。それは、振動数時間です。

人間の思考の場合は、この振動数の「振」=「心」=「信」

なりたつと考えられます。


3次元世界において「時間」は”長い”か”短い”かの自然数の変化しかありませんが、

「振」=「信」=「心」においては本来100人100通りの自由性があるものです。


その「振動数」の自由性が、Aを”常識”とするフィールドA’に留まる限り、

時間の経過さえ与えれば知らず知らずに、そして当然のようにAを常識とする「振動数」A”に

固定されてしまうのです。これは、慣性の法則と同じ種類のものでしょう。

一端「振動数」がA”に固定されてしまうと、何らかの強い作用が「振動数」をかき乱すか・・

あるいはフィールドA’を離脱して、全く別の振動数BをもったフィールドB’に移動するか・・



いずれにしても、悪魔「ヒプノティック・リズム」で語ったように、

一端固定された「振動数」は慣性の法則によって時間のなかで綿々と継続されるのです

そして、この固定された「振動数」を慣性の法則から離脱させることが、

ドラッガー先生のイノベーション理念の刷新つまり常識の刷新にあたると考えます。



映画では、一方で複線として、2つのエピソードが語られます。

ひとつは、義理の父・征治が敗戦を迎えた南方で飢えをしのぐために作った

”雑草だらけの畑”に”無農薬”で栽培した「見事なナスの話」と「その畑の土」。

そしてもうひとつは、主人公の妻・美栄子が家計の支えに耕している僅かばかりの

終始”雑草”の生い茂った「野菜畑」と「その野菜の評判」。


主人公・秋則は、これらのエピソードから”地力”という情報に日常的に触れていますが、

結局10年の歳月をかけ、自殺未遂という窮地から復活するという”爆発的精神エネルギー”

によって、ようやく”地力”の存在を認識し、自己の常識をイノベーションしています。



この場面から、主人公・秋則は「りんご農家の常識」から「リンゴ農家としての常識」を

創造する新たな「振動」のフィールドを確立し、確実に移動しました。

彼自身の常識が一新されたのです。

それによって、”振動数”がかっわてしまった主人公・秋則の3次元世界の変化は、

彼の内的変化に共振した”リンゴの木”という存在によって顕現化した・・・・・のです。


つまり、主人公・秋則の思考フィールドが地力をはぐくむ自然界の営みと共振し、

やがてリンゴの生命力そのものとも共振したのです。





リンゴ畑の”地力”は、地力という1つの力学的力ではなく、様々な関係性の中に成り立つ

”相互協力の力”です。そして、それが”自然界の力”のあり方であり、

結局は本来内在する自然界の力を”人間の向上”という目的性に利用するという視点が

”自然農法”の思考フィールドであり、本来の科学なのだと思うのです。




「人間が作った力によって自然を支配する」という思考フィールドには、

自然界との共振はありえないでしょう。

さらに「この自然界そのものが、偶然の産物である」という思考フィールドには、

自然界の崩壊を招く”反作用の力”があると実感しています。



自然界」には、つねに「人間の常識を限界突破させるための様々な仕掛け」が

準備され、秘められていると思えるのです。

それを見つけ、人間の向上をめざす真摯な探求を「科学」とよんでいきたい・・・と

改めて思います。



最後に付け加えれば、「共振」という法則性は中立です。


結局、何に共振するのか?どのようなフィールドに立つのか?

この選択の自由を勝ち得ることの大切さを思います。





コラム: 飛躍的!発想の転換 〜DVD『奇跡のリンゴ』 1 

  • 2014.02.14 Friday
  • 12:45
 
前回2度にわたって触れた「科学の神」や「隙間の神」に重なる思いで、

DVD『奇跡のリンゴ』を鑑賞しました。


まずは、この映画が実話にそった物語であったことを思い、

わが身にあてて感動と反省。そして、俳優陣の優れた演技に感動!でした。

主人公・秋則(安部サダオさん)
妻・美栄子(菅野美穂さん)
美恵子の父・征治(山崎勉さん)

農薬によってリンゴ農家の人体が蝕まれていた・・・・

その1人が妻・美栄子であったことが、主人公に”無農薬栽培”を決意させるのですが、

主人公は”リンゴ栽培のエジソン”的存在でした。



印象に残る映像は・・・・

父・征治がただひとり”リンゴの虫取り”をしていた横顔。

妻・美栄子の”日記”を読む目と、だんだんに小さく書かれていくチラシの日記。
  そして、病院の廊下に響いていた美栄子の嗚咽・・・(あの声は凄い)

主人公・秋則が口いっぱいの”土の味わい”に感動している姿。

そしてリンゴ達の、どうやって撮影したのか?と思わずにいられない”盛衰”


きっと、沢山の素晴らしい感想がネット上に溢れているでしょう・・・。




映画の中のアナウンスでは、もともとのリンゴの実は甘みがなく、

1000年以上も人の手によって改良を加えられ、守られて栽培されたリンゴの木は、

無農薬な”自然栽培”に戻すことは不可能である

という「結論」から始まりました。



福山ガリレオも「できない・・?!」に強く触発されますが、

生来の科学者気質の主人公・秋則も「どうしたら、できるか?」

命をかけていくことになりました・・。で、11年目に自然農法に成功するわけですが、

ナポレオン・ヒル氏のいわれるとおり「成功者の最大の共通項」は

失敗から学び」そして「成功するまでやり続ける



理想に向う粘り強い努力 と 地道な検証作業・・・・あきらめない根性・・そして資金力

ある意味で、生来の科学者は”金食い虫”あるいは”発展的浪費家”でしょう。

全財産を食いつぶして・・・初めて未知への突破口にたつ。そこから

主人公・秋則のように、結果(成功)にたどりつく”使命感”と”葛藤”が

生まれるのかもしれません。



けれども、それらもまた「成功」の扉をあける”本当の鍵”を手に入れるための

必要条件であり、”本当の鍵”は「飛躍的!発想の転換」そのものだったと

主人公は証言しているかのようでした。


ここでいう「発想の転換」は発展的段階がありました。

ひとつが、妻・美栄子の現状に対する「問題解決」のために選択した

「有機農法」という動機における初段階の「発想の転換」がありました。

つまり、化学薬品の農薬散布をしなければリンゴは育たない!という

”リンゴ農家の常識”に対する「発想の転換」でした。




そこから、その検証作業といえる様々な「代替農薬」の検証実践に没入して、

10年にわたる検証実践の度重なる失敗による経済的貧窮の果てに・・・

いよいよ「飛躍的!発想の転換」が待ち受けていたわけです。



けれども、物語が語る「飛躍的」の本当の意味は、

主人公・秋則が踏襲していた”リンゴ栽培”そのものの”常識”の中に

根源的失敗要因が潜んでいたことを突き止めた!
ところにありました。



ちょっと脱線しますが・・・・・・・・・・・・

現代版の『青い鳥』や『オズの魔法使い』です。

これらのストーリーの共通は、どこか遠いところではなく

「幸せは、日常の自分のすぐそばにある」
と伝え続けています。

これも、主人公たちにとっての「飛躍的・発想の転換」といえました。



ところで、この”日常”は日常であって日常ではない!”日常”だと考えられます。

つまりそれは「捜し求める」旅の終わりに出会う”日常”であるのです。



パラレル・ワールドのように、”努力の前の自分”と”努力の後の自分”は

必ずしも同じ世界に存在しているか・・・・は誰も分からないはずです

もし、主人公・秋則が中途挫折していたら・・・・彼を取り巻く全ての世界が

映画のストーリーとは全く異なっているはずです。

もし、もっと生半可な段階で自殺を選んだら・・・・自殺は成功していたかもしれません。



私たちが存在する3次元空間は、ひとつである!といいきれるかどうか?立証されていません。

それより、3次元空間さえも複数同時存在している世界観

まもなく常識になる可能性も大きくあります。


ある意味で”科学”とは、このパラレル・ワールドに挑戦する方法であるのかもしれません。




話をもとに戻します。


映画では”無農薬”とは「科学農薬を使わないこと」ではなく、

本来の生命力を復活させる」ことだった!わけです。



結局、「飛躍的・発想の転換」とは「自分のうちに潜む常識を変える」ことだったのだと、

今、確信しています。






明日は引き続き、 DVD『奇跡のリンゴ』 〜”地力”という営み〜

ここでは作品中の”もうひとつの主役”であった”リンゴの木”と”地力”に

フォーカスしてみます。




コラム:科学の神2  〜「隙間の神」〜

  • 2014.02.10 Monday
  • 01:58
 
ソチ五輪も始まりましたが、日本では最も寒いこの時期に受験生たちが

今までの精進の成果を最大限にいかそうと、真剣な取り組みをしています。




五輪選手にしても、受験生にしても、

当然ながら、本人も、そしてその成功を願う家族や恋人などは、

なにかしらの助力を願って「神」に成功を祈っています。




もし本当のところを語れるならば、世の中に”成功”という体験をされた方であれば、

努力の限界の先を求める人であるほど「人事を尽くして、天命を待つ」の気持ちと、

やはり「祈り」を捧げずにはいられない経験をしているに違いありません。



なにかを成し遂げんとするする人は、自分の努力が届くような経験においては、

たしかに情熱といえる”自助努力”を惜しみませんが、

それが一端自分の手の届かない、”自助”しようにも手の届かない状況に置かれた時、

天然自然に”祈り”をささげるものだと信じています。




例えば、宇宙科学にしても、生命科学にしても、

最終的には”祈り”の境地に到達できたものが、本物になっていると言っても

過言ではないと思います。




例えば、アポロ計画だろうと、隼(はやぶさ)だろうと・・・

宇宙という”手の届かないところ”にある存在に、唯一届けることができる、

あるいは繋がりを結び続けることが出来る方法は、最後は必ず”祈り”です。



形として祈ろうとしない人はいても、思いにおいて祈らない人はいない・・・と信じています。

もしかしたら、”祈り”は人間としての”本能”かもしれません


その”祈り”を込める先が「無」であると、”祈り”を込めている人は全く思いもしないでしょう。

”祈り”が真摯であればあるほど、”祈り”の先には見えなくても、確かな存在」が

信じられているはずです。



科学であっても、結局は「人」が思考する”フィールド”であるのです。

その”フィールド”を支えている存在は、人間ではないはずです。

だから、素直に「神」と思うことにためらいは必要ないのではないでしょうか?





昨日も触れましたが、現代で言う「科学」は主として19世紀、ダーウィンたちによって確立された

「自然科学」を祖(おや)として発展してきたために、「自然科学」の世界観が

そのまま「科学」の世界観として常識化しているのだと書きました。

けれども、この「自然科学の世界観」は19世紀当時の西洋社会に生きていた人々の

鬱積した様々な感情を飲み込んで形成された世界観だということを忘れてしまうと、

”流されて”しまいます。


純粋に科学のために出来上がった世界観ではないのです。



いまさら「語ることを許されるなら・・・」などと前置きをおくことも必要ないでしょうが、

純粋に科学のために科学を考える」ことが出来る環境なら、19世紀当時より

現代の方がず〜〜っと優れていると思います。


たとえ、実験科学であったとしても、最終的な段階ではやはり”天命”を待ち、

そして個々の思いの中で”祈る”のだということを知らない科学者はいないでしょう?




結局、科学の中で”神”という言葉を封印した裏には、

人間知における宗教的限界、例えばキリスト教会が科学を不自由にさせてきた歴史が

長かった・・・ということの具体的対応策なのであって、

だからといって”神”そのものが存在していないと、過去の科学のなにものも証明は

していないのです。



今の科学的常識では、神の領域は「隙間の神」といわれていて、

その意味は<科学によって人間が事実を解明していくことで、神の居場所はなくなっていく>

という いとも単純な発想ですが、

それを”事実”とするためには「人間は、全てを知り尽くしている」あるいは

「人間には未知がなくなる」という前提を肯定しない限り、ありえないはずです。



もしこの前提が肯定されるなら、それは即「人間=神」ということになりますから、

それなら宇宙も、世界も、生命も、当然人間が人間になる前に人間が世界を創らなければ

ならない・・・と、私などは考えます。



私には、この考えを受け入れることは無理なので、

私にとっての「隙間の神」という意味は、<人間が現時点で認識できる範囲が

限定されているために、人間によって解明されたことが神の存在を隙間に追いやったように

見えている状態>という解釈
になりました。



ふと、仏の掌を飛行した孫悟空が目の前に見えてきます・・・。



そして、本来の素晴らしい科学者であるならば、

人間が知ろうとして、知りえた!と思ったところから、また次なる未知が見えてくる!という

興奮に立ち会うに違いありません。

だからこそ、そうした多くの科学者達は”神”の存在を否定することなど出来ないのでしょう。



おそらく私の直感的な感想ですが、理論物理学や虚数の数式の世界は

”神の存在”を数字として語っているのではないか?と考えています。



残念なことに、言語が理解できないので、それらが翻訳される日を楽しみにしています。




コラム:科学の神1 〜『悪魔を出し抜け』からみる 「科学」 と 「神」〜

  • 2014.02.09 Sunday
  • 01:48

 
ウォレスとダーウィンの項でもご紹介したことですが、

19世紀中頃、当時ヴィクトリア女王のもとに大英帝国として栄えていたイギリス経済の発展が、

貴族以外の中産階級の裕福な人々をうみだし、

その中産階級の紳士たちが中核となって、「科学」や「学問」を

特別な学者や貴族だけの”特権”ではなく、広く一般人の興味関心の対象にしました。


その結果として、ダーウィンやウォレスの活躍によって”自然科学”というジャンルが誕生し、

その”自然科学の温床”から現代に至る様々な科学が芽生えた・・・というのが、

現代科学のプロフィールです。


結果的に、現代科学の”祖(おや)”は「自然科学」だということになります。




では、自然科学が科学の上に”自然”という言葉を冠しているのは何故?と考えれば、

この”自然”とは”物質化したもの”という「前提」をあらわしているのだと気付きます。

物質つまり形而下を専門として科学とする世界観を継承している”思考系”です。

現代的にいえば「実験科学」といわれる系列の科学に相当するでしょう。



今私たちが普通、あたりまえに科学と呼ぶとき、

あるいは科学的か否か?と思考判断するとき、

その前提に必ず”物質化したものにおいて”とか、”実験的に証明可能な範囲で”と

いう”但し書き”を含んでいます。



そして、この”但し書き”をいちいち述べなくてもよい共通の価値観に”常識化”する

教育システムを構築したことをナポレオン・ヒル著『悪魔を出し抜け』は暴露したのです





この暴露本によってヒル氏が同義的に社会的抹殺を受ける可能性を恐れて、

ヒル氏の家族は『悪魔を出し抜け』の原稿を封印したわけです。が、

その封印を70年以上の時を経て今開示できるようになったということは、

ひとつには、ナポレオン・ヒル財団が揺るぎのない評価を確立したことを意味する。と同時に、

『悪魔を出し抜け』の影響力が、著述当時より格段に小さくなってきたことを意味しています



一般的に現在では「神」や「悪魔」の存在の是非は、「個人の自由」に含まれる事柄であって、

「社会的道義」などというレベルで扱われるような事柄ではない!という”暗黙の了解”が

はたらいているということでしょう。つまり、「神」や「悪魔」を信じる人々の思想的影響力

小さくなっていることを裏付けたことにもなります



その一方で、科学的進化は「ナイト・サイエンス」によって支えられているという

事実があることを重ねれば、現在の科学界において”神秘性”や””は伏字で実在し、

それによる成果だけが「科学」として吸い上げられているということであるでしょう。



この「伏字の実在」を『悪魔を出し抜け』の悪魔は”(悪魔に対する)対抗勢力(神)”と

呼んでいました。



コラム『悪魔を出し抜け』にふれましたが、ヒル氏の”思考管理”のもとで

悪魔の思考が言語化されている中にも、実に巧妙といえる”すり替え”が

繰り返されていることが、現在の視点からは気付くことが出来ます。



その”すり替えの呪文”と考えられる言葉のひとつが、

       科学的に 思考する  

という言葉です。 ”流されない”ために悪魔が推奨している方法ですが、70年以上前の

著作時はまだまだキリスト教会の社会的影響が大きかった頃のことですから、

科学的に思考する=神の存在否定 の推奨でもあった可能性があります。


といっても、悪魔は”キリスト教会”と”学校”が悪魔の協力者であると言い切っていましたね。



70年前のアメリカで、キリスト教会と学校を敵にまわすことがどれほどのことか・・と

思わずにはいられませんが、今現在の日本に言い換えれば”マスコミ”と”中国”を敵に

まわすような著作が『悪魔を出し抜け』だった
ということになるでしょう。                                        




明日も「科学の神2」を考えていく予定です。

科学的世界観 と イノベーション理論

  • 2014.02.03 Monday
  • 01:52
 
前回1月23日の記事をダーウィン・サイエンスディバイン・サイエンス

次元的相違点と題しましたが、

3次元世界だけの仮説(科学) と 4次元以上の高次元世界を含む仮説(科学)

言い換えることが出来ます。



さらに、もう一度言い換えれば・・・・

水平方向の世界観  と  垂直方向の世界観 と言うことが出来るかもしれません。



実際、ダーウィン・サイエンスだけに「サイエンス」という言葉を適用することを

常識としてしまったことから、それ以外のものは「非サイエンス」または「似非サイエンス」と

して扱われることに甘んじなければならない時代が、現在進行形で150年間も続いているの

ですから、うっかりすれば「ダーウィンの進化説」が”仮説”であること自体を忘れて、

普遍的真実であるかのように思い込んでしまうのも当然です。



ですから、ここでちょっと立ち止まって「本当のところは、どうだったのか・・・?」と

思ってみても損はないはずです。



そもそも、その「本当のところ」自体が知りたいために「科学」と称する「仮説の証明行為」が

存在しているのですから、様々な仮説がそれぞれに科学としての世界観を

自由に論じ合い、刺激しあっても、何一つおかしなことはないはずです。



経済界では”イノベーション”を知らない人は少ないでしょう。


専門ではありませんから”イノベーション”そのものを論じることは出来ませんが、

ドラッガー先生の「体系的廃棄論」にしても、シュンペーター先生の「新結合論」にしても、

今よりもよりよいものを生み出すために常に”常識”の壁を突破するための努力を

求められていることだけは分かります。




私が考えるディバイン・サイエンスは、垂直方向の世界観を持ちますが、

それは水平方向の世界観を否定するものではありません。

先ほどのイノベーションでお話すれば、

まずドラッガー先生の「体系的廃棄論」にならい「ダーウィン的進化論」を廃棄し、

さらにシュンペーター先生の「新結合論」にならって

「水平方向と垂直方向の世界観の結合」をなすと、

そこに「大いなる秩序のもとの自由」が出現するのではないか・・・!と

心から期待しているのです




科学的世界観にも、イノベーション理論はきっと有効であると信じています。




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Wornitz

〜ピタゴラスの手 HPより〜 Wornitz(ワーニッツ)を例えて言えば、泥水の入った容器をシェイクするようなものです。暫くするとシェイクされる前と同じように、その中身の比重に合わせて沈殿していきますが、しかし,どこをとっても「以前と同じではない」という状態、すなわち「秩序が変えられた状態」になっています。 泥水と違って私達の身体はもともと「より良くなろう」という性質が備わっており、Wornitz(ワーニッツ)によりシェイクされた後も無秩序に再構成されることはありません。常にベストな状態(秩序)を探りながら構成されていきます。そこに私達人間の素晴らしさを見ることができます。 その性質を最大限に活用させていただくことが、その時々の「最適な秩序」を構成する上でとても大切なことだと言えます。

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