「カミ ハ シン ダ」?4   〜”白紙”からの再スタート〜

  • 2014.03.24 Monday
  • 14:08
 
「カミ ハ シン ダ」?・・・というタイトルで、現代の”科学的”とよばれる常識には

アンチ神主義 という スタイル が 19世紀から現在も流行している。」という

ことを書きました。


なぜそう言ったかといえば

「神は 死んだ」と言ったニーチェも、「信仰は 麻薬だ」と言ったマルクスも、

「人間は 猿から進化した」と言ったダーウィンも、19世紀に活躍した人たちで、

その19世紀の彼らの思想性から”現代科学”が発展した・・

だから 現代科学の常識は、必然的に”神の不在”を前提にしている!のだということを

確認しておこうと思いました。


そして、現代日本人が日常的に使う『神』という言葉も 稚拙ですが分類してみました。

すると、「現代人が『神』という認識をもつのは、人間生活の範囲で

個人的な感情レベルの認識が大きい
」ということが見えたように思います。



過去記事の繰り返しになりますが・・・、

現代における科学のレベルが、上のような経緯のままで

「神は 死んだ」=「”神の不在”を常識とする」というスタイルを踏襲するメリット

”ある”と考えることが、私には理解できないままでいます。



「科学的な論拠もなしに、神を信じている者は”低学歴の人間である”」という内容の

発言を なにかの紙面で見たことがあります。

<一般人に「神を信じているか?」というアンケートをした結果、

高学歴ほどNO、低学歴ほどYESの比率が大きい>という科学的?調査結果の

まとめであったと記憶しています。



この調査結果だけを事実としてしまえば、

科学や宇宙について高次な研究に取り組むほど、

『神』に根拠を求めるしかない・・・あるいは神の実在を確信するに至る・・・

と感じる科学者たちが 歴史的にも、現在ただ今も後を絶たない

という現実の意味がわかりません。



そうした科学者や研究者たちにとって、この世界あるいはこの宇宙は

『偶然』で片付けることのできないほどの「秩序と法則」に満ちている
のです



このように言えば、必ず「神の実在を 科学的証明しない限り 科学として

認めることはできない!」という立場で、<神の実在を前提に思考すること>自体を

徹底的に排除しようとする者が現れます。



けれども、その時に注意深くあらねばならないのは

「人間は 同じ言葉を 全く異なった認識で 用いることがある」という事実です。

つまり『神』という言葉を いかなる認識で用いているのか?を

きちんとお互いに了解しておかない限り、”理解”という領域には達しないでしょう。 


ここでいう”理解”とは、”鵜呑み”ではありません。

”自己責任”という立場から、 ”より正しい選択”をするために必要な精神的作業です。


だからこそ、”認識の確認作業”としての「用語の定義」が存在するのでしょうし、

あるいは、全ての認識を統一できないからこそ「思考、言論の自由」も

確保される必要があると 
考えています。


きっと、科学の世界は ”白紙”からの再スタート を待ち望んでいるはずです。



そうした意味で 現代科学といえども、まずは「科学において神は不在である」という

言葉による「全否定」に固執せず、 まずは”白紙”に戻して、

「いかなるものを 『神』 と定義しているのか?」という

それぞれの立場を明示する時期がきているのだと思うのです




ただ 正直なところ、人間という存在が”判断”する以上は、 ”客観的な論証”ではなく、

”個人的な確信”にゆだねられている問題なのだ・・・と 強く感じます。




 

「カミ ハ シン ダ」?3  〜"アンチ神主義"というスタイル〜

  • 2014.03.15 Saturday
  • 22:44
 
前回、「現在一般に巷で使われている『神』という言葉」を7つの分類に試みました。

今日は、ディバイン・サイエンスの立場から『神』の定義を考える・・・その前に、

もう少し「カミ ハ シン ダ」の話題で進めていきます。



ニーチェ氏が「神 は 死んだ」と言い、

マルクス氏が「宗教は 阿片である」と言い、

ダーウィン氏が「人間は 猿から進化した 動物である」と言ったわけですが、

この3人の言葉から推察できる”3人の共通認識”と考えられることは

「『神』などという存在は、人間の都合で考え出した架空の存在であって、

人間の進化あるいは文化には”百害あって一利なし”の虚である。」

という声が聞こえてくるように思えます。




そして、この高名な3人が同時代の19世紀に生まれ活躍したことからも、

19世紀の産業革命とともに”アンチ神主義”というスタイルが流行してきたと考えられます


『私はモード(流行)ではなく、スタイルを創っている』とシャネル女史は語ったそうですが、

スタイルというものは、一時の流行を超えて人々の生活に密着していく力を

もっているようです



皮肉にも、今では『神』を否定したこの3氏の発言は「神の言葉」のごとくに信じられ、

現代では全ての物事の基盤として”常識化”しています。


ですが、その発言から100年〜150年の時間的経過を率直にみれば、

けして彼らの発言が今後の未来をも導きうる”真理”をふくんでいたとは考えがたい!

思っています。




ずいぶんと卑近な譬えですが、彼ら3氏の言動は

”反抗期”の思考状態のように思えます。


神を否定したくなるような個人的体験を味わっているのかもしれません。

例えば、愛する者の死や、求めても得られない苦しみ・・・などです。


だから、自分の苦しみを救えない神などいらない!神などをあてにするから裏切られる!

それなら、自分から神とおさらばして、自分の力だけで立派に生きぬいてやる!

確かに、もし神という存在が”肉体的な親”つまり”この世の拠り所”という意味合いだけであれば、

そうした価値観もあるかもしれません。



あくまでも、私心ですが・・・現代常識の基盤を築いている彼ら3氏は、

彼らの人生経験に基づく”個人的感情の発露”として、それぞれの活動を

発展させたのだろう。
と思われるのです。

けれども、その影響力の大きさを思えば、人類の進歩、発展のために

個人的感情のレベルを超えて欲しかった
と思います。




人間は基本的に”自由”を求めます。

だからこそ親から離脱し、自分独自の価値観で自助努力し成功を立証することは、

人間として逞しく思えます。

それは人間に期待された当然の順当な成長のプロセスでもありますが、それらは

その後に”見守るものの気持ち”というものを
理解し、感謝できる者になるために

必要な階梯としてあると信じています。






「カミ ハ シン ダ」?2 〜一般的「神」の分類〜

  • 2014.03.12 Wednesday
  • 00:56

ちょうど「東北大震災3年目」を迎え、多くの犠牲者の方々と、

未だ故郷に帰ることの許されておられない方々に、心からのお見舞いを申し上げます。

****************


前回から「そもそも・・・・・

ニーチェ氏にとって『神』の定義は何だったのか?

それは私には解明不可能ですが、一般論的に使われてる『神』という言葉の定義を

考えてみる必要性は十分にあるでしょう。

次は、『神』という言葉の一般的な定義を考えてみます。」ということで始めます。



日本語(標準語)の「カミ」というイントネーションには”上”と”神”があります。

古の日本の人々にとって、神=上という認識が明らかにあったのだろうと推察しています。


現在の日本人が、日本語という言語が形成される原点と同じ感性や価値観をもって

日本語を使っているとは考えていませんが、少なくとも言語を形成している

”共通認識”は共有している所が大きいと信じています。



現代の神の定義・・・とはいえませんが、あくまでも私的な視点で『神』と

よばれる条件を分類
してみたのが以下のようなものです。

1)立場

立場上の位置関係が上”というニュアンスで『神』という表現を多様しているようです。

例えば、三波春夫氏の「お客様は、神様です」。ラーメンチェーンの「神座(カムクラ)」。

個人としての個性より、商習慣なども含めて”社会構造”に伴う価値観です。

元々は、神の直系子孫とされる天皇を護衛する役割の武士も、徳川幕府の長となれば

「上様(ウエサマ)=お上(カミ)=武士社会の神」で、「それ以上の者は存在しない」という

婉曲な表現のようです。



2)能力

自分を含む仲間たちより、はるかに優れた能力を持つ人を讃えて「〇〇の神」。

つまり”上”というのは「はるかに優れている」ということで、その人が”神”と呼ばれています。

天才と同義語の部分もありますが、生まれつきの才能だけではなく、膨大な努力精進の果てに

到達した境地に対して「とても追いつくことは出来ません」といった尊敬の表現に思えます。



3)人徳

多くは神社が建ちます

つまり、実際に生きているなかで多くの人々から人徳を讃えられていた方々が、死後にも

その人徳を崇めて『神』として神格化されています。地方には沢山あるでしょう。

例えば、陰陽師の阿倍野清明→清明神社、吉田松陰→松陰神社、明治天皇→明治神宮。



4)祟り(たたり)

3)の人徳の反対で、祟りを恐れる対象も神になり神社が建ちます

怨念が高じて物理的パワーを持つに至った場合は、それを鎮めるために『神』として

神社を建てて祀っています。
荒神・・・といった名前がついたりします。

そういう意味では”天神”つまり菅原道真も”祟り神”でしたが、

今では学業成就の神様として有名になっています。


5)功徳

ある対象に願って、なにか実際に願いが叶った・・・ということで、多くの人々が

”お陰”を感謝したり、さらなる”お陰”を願う対象が『神』となるようです


中には、石だったり木片だったりしたような記述もありますが、

多くは宗教的な信仰とともに存在して、役割担当をもっているようです。

例えば、七福神もそれぞれが具体的な功徳の対象をもっていますし、

観音菩薩も神という言葉では呼ばれませんがキリスト教の7大天使のような立場です。


中には、瞬間功徳といえるような刹那的な成功を求めて危ない信仰もあります。が、

結局は生きている人間の欲心の問題のようです。


6)民族の守護神

民族・・・という考え方も実は難しいものがあるようです。

DNAとはいいきれません。多くの混血が繰り返され、純潔種族などありえません。

それでも、民族といえる統一性が伝承されるとすれば、その根底には宗教があるはずです

あるいは、宗教的同一観念を共有しています。

そして、その同一性をもった人々を中心に援護し、発展に努めてくださる目に見えない存在が

民族神としての『神』であり、宗教でしょう。

たとえば、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、日本神道・・・なども

本来は民族神としての『神』を語っています。

本来の仏陀やイエスにおいては民族神を超えていったと思われます。



7)自然力

特に、自然災害が頻繁な地域では、自然の威力も神として認識されます。

また、自然という表現形のうしろに”大いなる意思”としての『神』を感じています。

つまり、『神』とは自然を動かすに足る力を備えていて、直接に語らずとも

自然というキャンバスに様々に啓示を示している・・・ということになります。

その結果として、大きな被害を伴うような自然災害の発生は「統治者への警告」と

みなされます。



ちょうど「東北大震災3年目」を迎えましたが、当時であるならば民主党政権の方向性に対して

”大いなる意思”が災害という象徴的な警告を示したと考えられるのです


この意図で、当時の東京都知事だった石原新太郎氏が民主党にむけた言葉を

逆手にとって民主党が糾弾していましたが、当時の民主党首相には

本当に責任を取っていただきたい!!次第です。



大まかに7要素に分類してみましたが、現在の巷にある『神』を分類してみたつもりです。

けして、不敬の思いではありません。


次回は、ディバイン・サイエンスの立場から『神』の定義を考えてみます。




 「カミ ハ シン ダ」?1

  • 2014.03.06 Thursday
  • 23:35

高校に「倫理」という教科が1年間ありました。

今思い返せば、”哲学史”といえるような授業内容であったと思えます。



予習をせずにぶっつけ本番で授業に臨むわけですから、

そのほとんどは忘却のかなたですが、逆に映画でも見ているかのように

鮮明に思い返すことの出来る授業が2つあります。


そのひとつは『無知の知』の”ソクラテス”。もうひとつが”ニーチェ”です。



特に”ニーチェ”には、今も当時と全く同じ感想を抱いたままであることが

自分なりに記憶を鮮明にさせている所以だと思えます。



それが、倫理教諭の口から発せられた

かの有名な「カミ ハ シン ダ」というニーチェの言葉なのですが、

当時、予習もせずに授業に臨んでいた私の耳には

紛れもなく「神 は 真 だ」と聞こえ、そして「そうか・・・」と深く納得したことが

忘れられないのです。


ところが、授業が進むにつれて「神 は 死んだ」としか理解できないような内容に

なっていくことに、反論できないとはいえ、納得できない自分が居続けたわけで、

それが今もって続いています。



特別な信仰をもっていたわけではなかったのですが、

自分にとっては「猿が人間になった」という授業を耳で聞いて、

テストの答案には先生から期待されている答えをとりあえず書き込んだものの

「そんなはずはない」としか考えられない自分の確信が何処から来るのか?・・・

そのことの方が、はるかに興味深い問題のように感じ続けてきたわけです。



そのお陰か、その後になっても”神の存在証明”の是非がついているのか?いないのか?

その結果を知りたくて、耳を立てていたのだと思います。



そして、現時点で行き当たったことは非常に中立ではありますが、

神の存在の証明を成し遂げた者はいない・・・

神の不在の証明を成し遂げた者はいない・・・

そして、そのどちらも正しいのではなく、そのどちらかが正しい・・・



で、自分はどちらを信じるのか?という自己責任であるということです。



そもそも・・・・・

ニーチェ氏にとって「神」の定義は何だったのか?

それは私には解明不可能ですが、一般論的に使われてる「神」という言葉の定義を

考えてみる必要性は十分にあるでしょう。


次は、「神」という言葉の一般的な定義を考えてみます。





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Wornitz

〜ピタゴラスの手 HPより〜 Wornitz(ワーニッツ)を例えて言えば、泥水の入った容器をシェイクするようなものです。暫くするとシェイクされる前と同じように、その中身の比重に合わせて沈殿していきますが、しかし,どこをとっても「以前と同じではない」という状態、すなわち「秩序が変えられた状態」になっています。 泥水と違って私達の身体はもともと「より良くなろう」という性質が備わっており、Wornitz(ワーニッツ)によりシェイクされた後も無秩序に再構成されることはありません。常にベストな状態(秩序)を探りながら構成されていきます。そこに私達人間の素晴らしさを見ることができます。 その性質を最大限に活用させていただくことが、その時々の「最適な秩序」を構成する上でとても大切なことだと言えます。

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