コラム:”Pixie Dust/ピクシーダスト”と”STAP細胞”  〜小保方氏へエール!〜 

  • 2014.04.10 Thursday
  • 01:00
他のブログで過去に紹介させていただいた”Pixie Dust/ピクシーダスト”の記事を
再編集して、以下にまとめました。

それから小保方氏の”STAP細胞”についての思いを書かせていただきます。

**********

1)The man who grew back his finger tip 〜BBC News~
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/7354458.stm

2)Pixie Dust - Magic Powder - Regrows Thumb
http://youtu.be/QzfgwQEQoFk

1)2)の映像に写っている「指先再生」のプロセスは「事実」だそうです!

画像1)簡単な映像の内容説明
BBCインタビューの老紳士 Mr. Spievak は、ラジコンのプロペラで
右手中指を1.3cmほど切断する事故にあいました。
その時、彼は外科処理をせず、再生医療に携わっている兄弟のAlan さんから
送られてきた白い粉”'Pixie dust”(ピクシーダスト)を10日間傷口に付け、
4週間で爪や指紋も含めて再生したそうです。

そのときの'Pixie dust' によって再生していくMr Spievakの中指の経過が、
上記の動画The man who grew back his finger tipです。

すでに食道がんの手術で食道を失った女性の「食道再生」が試されているそうです。
成功を祈ります。

画像2)簡単な説明
Newsで取材を受けているのは、右手親指の先をドアに挟んで切断してしまった
3歳くらいの男児の両親。
やはり、Dr.に薦められて”'Pixie dust”(ピクシーダスト)を使用。
2週間ほどで指先が再生したそうです。

この技術が更に応用・発展していけば、近い未来に「脳死による臓器移植」は
いらなくなり、死の尊厳も見直されていくことでしょう。


******************
'Pixie dustピクシーダスト=”妖精の粉”の意味)は、
豚の膀胱組織を化学処理して粉末状にしたものです。

おそらく、膜組織などの結合組織に含まれる成分によって、
体組織の”芽細胞”が強く活性化されることで
失われた組織や構造が再生されるのだろうと考えます。


BBCサイトには、”'Pixie dust”の製造プロセスを簡単に画像紹介していますが、
とてもシンプルな精製プロセスです。

おそらく、小保方氏の細胞処理の方法も 思いがけず簡単な・・・けれども、
それを思いつくこと自体は非常に稀なことであるだろう・
・・
と”Pixie Dust”の事例から直感します。




現在、小保方氏の”STAP細胞”の真偽をめぐってマスコミがヒートアップしていますが、
小保方氏が現時点で製造過程などの詳細を公表しないからといって、
”STAP細胞”の存在自体を単純に疑うのはおかしいと思えます。



研究者といえども、自己の研究成果を保護することは
”知的財産”という観点からも大事なことだと思っています。

企業であれば、製品化して販売する瞬間まで企業秘密として保護するようなものを、
研究者はすべてオープンしなければならない・・・というのは、
どこかに”すり替え”があるように思えるのです。


まだ年の若い、しかも女性の研究者であるということに対する
”何らかの偏見と嫉妬”が小保方氏への陰険な対応に見え隠れしているようで、
日本には 研究者をはぐくむ環境 が非常に乏しい」ことを
改めて感じさせられます


ほとんどの優秀な日本人研究者は、アメリカを中心として海外流出している現実の理由を
見せられているようで 情けない気分です。


本当に”STAP細胞”の真偽を確かめたいのならば、
小保方氏に”静かで十分な 研究環境”を提供して 
更なる実例を積み重ねてもらえば、時間とともに真偽が明白になるでしょう




私は小保方氏の”STAP細胞”を信じ、期待しています。
なぜなら、Wornitsをとおして感じ取る身体は、
非常に繊細な存在であると同時に、非常にシンプルなメカニズムをもっている
ことを日々に実感しているからです。



”Pixie Dust/ピクシーダスト”も 小保方氏の”STAP細胞”も、
身体メカニズムのシンプルさを証明してくれる
力強い研究であり、さらには”生命の創造”へ応用される未来科学、
未来医療の萌芽
だ!とみています。


小保方氏には、ぜひこの難局をのりきって 研究の完成されることを祈ります!
がんばってください!!






ところで、この'Pixie dust' が「細胞外マトリックス」という組織であることを知り、
Wornitsのさらなる可能性を実感しています。


身体構造への一般的な関心は”筋・骨格”という視点ですが、
実際Wornitsが仕事をしている領域は「柔組織・結合組織」と呼ばれる
「細胞外マトリックス」を対象として、
身体本来の可能性に呼びかけていく哲学的アプローチです。

その結果として「起こるべきことが起こる」という事実が
様々な表現で現れてくることを
Wornitsを通して体験しています。


全て(の善きもの)は、すでに身体に内在する

”Pixie Dust/ピクシーダスト”と”STAP細胞”のニュースは、
善きものの内在を信じ、身体を探求することが ますます喜びになるNewsでした。

 

「カミ ハ シン ダ」5 〜〜

  • 2014.04.06 Sunday
  • 01:26


不慣れなPC切り替えのために ずいぶんと時間があきましたが、
 
前回は ・・・現代科学といえども、まずは「科学において神は不在である」という

言葉による「全否定」に固執せず、 まずは前提を”白紙”に戻して、

「いかなるものを 『神』 と定義しているのか?」という

それぞれの立場を明示する時期がきている。

科学の世界は ”白紙”からの再スタート を待ち望んでいるはずである。

・・・というようなことを書きました。




現代科学の発展を語ろうとするときに、なぜ 今『神』なのか?と

自問自答します。


私にとって その答えはとても”シンプル”です。


『神』という存在が”ある”と仮定した方が、未知の可能性が飛躍的に広がるからです。

それが”科学の発展”の原動力になると思うからです。




19世紀に「アンチ神主義」である「唯物論」を唱える思想家・科学者が急増したことと、

『神』の存在が否定されたことの裏には、19世紀当時のキリスト教会の限界

あったからだとみています。




勿論、新約聖書のなかで イエス・キリストが科学について言及するようなことは

なかった
のです。が、キリスト教会は19世紀に至るまで

科学的言論や科学的探究行為に対し、「反キリシト協会」とみなして

残酷な方法も辞さない非常に厳しい処罰を与えてきました。

この背景には、そもそもイエス自身の宗教的活動が

約3年ほどの非常に短期間であったために、キリスト自身の教えとして

”キリスト教”独自の世界観を確立することができなかったことに起因しています。

その結果として、キリスト教の世界観は、アダムとイブのユダヤ教の世界観

そのまま踏襲しました



それ以来、ユダヤ教の世界観を超えた”自由な探究心”を長年にわたり

キリスト教会が制圧・排除してきたことへの反動が、産業革命を迎えた19世紀に

達して噴出したのだといえます。


けれども、19世紀当時においてのユダヤ教の世界観を超えた”自由な探究心”の方向性は、

現代のような「アンチ『神』主義」といえる「唯物論」だけではありませんでした。


「『霊界』の復古運動」といえる「スピリチュアリズム=心霊主義」が、

現代科学の方向性を賭けて 「唯物論」と覇を競ったのです。

そして、現時点までの流れとしては「唯物論」が勝利したように見えています。


なぜ「唯物論」が勝利したかのように見えているか?といえば、19世紀当時の学者にとって

「唯物論」がカバーする「3次元の科学」のほうが、

「スピリチュアリズム」がカバーする「高次元の科学」より 安易、つまり分かり易かったからです。



21世紀。『相対性理論』を超える科学的思考を求められる時代の訪れによって、

ようやく「唯物論」の限界を声に出すことが可能になってきました。

そして、『神』の存在を肯定することが可能になってきた・・・・と思えます。




 

ご挨拶

  • 2014.04.06 Sunday
  • 01:03
日々にお越しくださって、ありがとうございます。

不慣れなPC切り替えのために、成す術もなく日にちが経過してしまい、

記事の更新が遅れました。

少しずつペースを取り戻していきます。よろしくお願いします。
 
続きを読む >>

「カミ ハ シン ダ」?4   〜”白紙”からの再スタート〜

  • 2014.03.24 Monday
  • 14:08
 
「カミ ハ シン ダ」?・・・というタイトルで、現代の”科学的”とよばれる常識には

アンチ神主義 という スタイル が 19世紀から現在も流行している。」という

ことを書きました。


なぜそう言ったかといえば

「神は 死んだ」と言ったニーチェも、「信仰は 麻薬だ」と言ったマルクスも、

「人間は 猿から進化した」と言ったダーウィンも、19世紀に活躍した人たちで、

その19世紀の彼らの思想性から”現代科学”が発展した・・

だから 現代科学の常識は、必然的に”神の不在”を前提にしている!のだということを

確認しておこうと思いました。


そして、現代日本人が日常的に使う『神』という言葉も 稚拙ですが分類してみました。

すると、「現代人が『神』という認識をもつのは、人間生活の範囲で

個人的な感情レベルの認識が大きい
」ということが見えたように思います。



過去記事の繰り返しになりますが・・・、

現代における科学のレベルが、上のような経緯のままで

「神は 死んだ」=「”神の不在”を常識とする」というスタイルを踏襲するメリット

”ある”と考えることが、私には理解できないままでいます。



「科学的な論拠もなしに、神を信じている者は”低学歴の人間である”」という内容の

発言を なにかの紙面で見たことがあります。

<一般人に「神を信じているか?」というアンケートをした結果、

高学歴ほどNO、低学歴ほどYESの比率が大きい>という科学的?調査結果の

まとめであったと記憶しています。



この調査結果だけを事実としてしまえば、

科学や宇宙について高次な研究に取り組むほど、

『神』に根拠を求めるしかない・・・あるいは神の実在を確信するに至る・・・

と感じる科学者たちが 歴史的にも、現在ただ今も後を絶たない

という現実の意味がわかりません。



そうした科学者や研究者たちにとって、この世界あるいはこの宇宙は

『偶然』で片付けることのできないほどの「秩序と法則」に満ちている
のです



このように言えば、必ず「神の実在を 科学的証明しない限り 科学として

認めることはできない!」という立場で、<神の実在を前提に思考すること>自体を

徹底的に排除しようとする者が現れます。



けれども、その時に注意深くあらねばならないのは

「人間は 同じ言葉を 全く異なった認識で 用いることがある」という事実です。

つまり『神』という言葉を いかなる認識で用いているのか?を

きちんとお互いに了解しておかない限り、”理解”という領域には達しないでしょう。 


ここでいう”理解”とは、”鵜呑み”ではありません。

”自己責任”という立場から、 ”より正しい選択”をするために必要な精神的作業です。


だからこそ、”認識の確認作業”としての「用語の定義」が存在するのでしょうし、

あるいは、全ての認識を統一できないからこそ「思考、言論の自由」も

確保される必要があると 
考えています。


きっと、科学の世界は ”白紙”からの再スタート を待ち望んでいるはずです。



そうした意味で 現代科学といえども、まずは「科学において神は不在である」という

言葉による「全否定」に固執せず、 まずは”白紙”に戻して、

「いかなるものを 『神』 と定義しているのか?」という

それぞれの立場を明示する時期がきているのだと思うのです




ただ 正直なところ、人間という存在が”判断”する以上は、 ”客観的な論証”ではなく、

”個人的な確信”にゆだねられている問題なのだ・・・と 強く感じます。




 

「カミ ハ シン ダ」?3  〜"アンチ神主義"というスタイル〜

  • 2014.03.15 Saturday
  • 22:44
 
前回、「現在一般に巷で使われている『神』という言葉」を7つの分類に試みました。

今日は、ディバイン・サイエンスの立場から『神』の定義を考える・・・その前に、

もう少し「カミ ハ シン ダ」の話題で進めていきます。



ニーチェ氏が「神 は 死んだ」と言い、

マルクス氏が「宗教は 阿片である」と言い、

ダーウィン氏が「人間は 猿から進化した 動物である」と言ったわけですが、

この3人の言葉から推察できる”3人の共通認識”と考えられることは

「『神』などという存在は、人間の都合で考え出した架空の存在であって、

人間の進化あるいは文化には”百害あって一利なし”の虚である。」

という声が聞こえてくるように思えます。




そして、この高名な3人が同時代の19世紀に生まれ活躍したことからも、

19世紀の産業革命とともに”アンチ神主義”というスタイルが流行してきたと考えられます


『私はモード(流行)ではなく、スタイルを創っている』とシャネル女史は語ったそうですが、

スタイルというものは、一時の流行を超えて人々の生活に密着していく力を

もっているようです



皮肉にも、今では『神』を否定したこの3氏の発言は「神の言葉」のごとくに信じられ、

現代では全ての物事の基盤として”常識化”しています。


ですが、その発言から100年〜150年の時間的経過を率直にみれば、

けして彼らの発言が今後の未来をも導きうる”真理”をふくんでいたとは考えがたい!

思っています。




ずいぶんと卑近な譬えですが、彼ら3氏の言動は

”反抗期”の思考状態のように思えます。


神を否定したくなるような個人的体験を味わっているのかもしれません。

例えば、愛する者の死や、求めても得られない苦しみ・・・などです。


だから、自分の苦しみを救えない神などいらない!神などをあてにするから裏切られる!

それなら、自分から神とおさらばして、自分の力だけで立派に生きぬいてやる!

確かに、もし神という存在が”肉体的な親”つまり”この世の拠り所”という意味合いだけであれば、

そうした価値観もあるかもしれません。



あくまでも、私心ですが・・・現代常識の基盤を築いている彼ら3氏は、

彼らの人生経験に基づく”個人的感情の発露”として、それぞれの活動を

発展させたのだろう。
と思われるのです。

けれども、その影響力の大きさを思えば、人類の進歩、発展のために

個人的感情のレベルを超えて欲しかった
と思います。




人間は基本的に”自由”を求めます。

だからこそ親から離脱し、自分独自の価値観で自助努力し成功を立証することは、

人間として逞しく思えます。

それは人間に期待された当然の順当な成長のプロセスでもありますが、それらは

その後に”見守るものの気持ち”というものを
理解し、感謝できる者になるために

必要な階梯としてあると信じています。






「カミ ハ シン ダ」?2 〜一般的「神」の分類〜

  • 2014.03.12 Wednesday
  • 00:56

ちょうど「東北大震災3年目」を迎え、多くの犠牲者の方々と、

未だ故郷に帰ることの許されておられない方々に、心からのお見舞いを申し上げます。

****************


前回から「そもそも・・・・・

ニーチェ氏にとって『神』の定義は何だったのか?

それは私には解明不可能ですが、一般論的に使われてる『神』という言葉の定義を

考えてみる必要性は十分にあるでしょう。

次は、『神』という言葉の一般的な定義を考えてみます。」ということで始めます。



日本語(標準語)の「カミ」というイントネーションには”上”と”神”があります。

古の日本の人々にとって、神=上という認識が明らかにあったのだろうと推察しています。


現在の日本人が、日本語という言語が形成される原点と同じ感性や価値観をもって

日本語を使っているとは考えていませんが、少なくとも言語を形成している

”共通認識”は共有している所が大きいと信じています。



現代の神の定義・・・とはいえませんが、あくまでも私的な視点で『神』と

よばれる条件を分類
してみたのが以下のようなものです。

1)立場

立場上の位置関係が上”というニュアンスで『神』という表現を多様しているようです。

例えば、三波春夫氏の「お客様は、神様です」。ラーメンチェーンの「神座(カムクラ)」。

個人としての個性より、商習慣なども含めて”社会構造”に伴う価値観です。

元々は、神の直系子孫とされる天皇を護衛する役割の武士も、徳川幕府の長となれば

「上様(ウエサマ)=お上(カミ)=武士社会の神」で、「それ以上の者は存在しない」という

婉曲な表現のようです。



2)能力

自分を含む仲間たちより、はるかに優れた能力を持つ人を讃えて「〇〇の神」。

つまり”上”というのは「はるかに優れている」ということで、その人が”神”と呼ばれています。

天才と同義語の部分もありますが、生まれつきの才能だけではなく、膨大な努力精進の果てに

到達した境地に対して「とても追いつくことは出来ません」といった尊敬の表現に思えます。



3)人徳

多くは神社が建ちます

つまり、実際に生きているなかで多くの人々から人徳を讃えられていた方々が、死後にも

その人徳を崇めて『神』として神格化されています。地方には沢山あるでしょう。

例えば、陰陽師の阿倍野清明→清明神社、吉田松陰→松陰神社、明治天皇→明治神宮。



4)祟り(たたり)

3)の人徳の反対で、祟りを恐れる対象も神になり神社が建ちます

怨念が高じて物理的パワーを持つに至った場合は、それを鎮めるために『神』として

神社を建てて祀っています。
荒神・・・といった名前がついたりします。

そういう意味では”天神”つまり菅原道真も”祟り神”でしたが、

今では学業成就の神様として有名になっています。


5)功徳

ある対象に願って、なにか実際に願いが叶った・・・ということで、多くの人々が

”お陰”を感謝したり、さらなる”お陰”を願う対象が『神』となるようです


中には、石だったり木片だったりしたような記述もありますが、

多くは宗教的な信仰とともに存在して、役割担当をもっているようです。

例えば、七福神もそれぞれが具体的な功徳の対象をもっていますし、

観音菩薩も神という言葉では呼ばれませんがキリスト教の7大天使のような立場です。


中には、瞬間功徳といえるような刹那的な成功を求めて危ない信仰もあります。が、

結局は生きている人間の欲心の問題のようです。


6)民族の守護神

民族・・・という考え方も実は難しいものがあるようです。

DNAとはいいきれません。多くの混血が繰り返され、純潔種族などありえません。

それでも、民族といえる統一性が伝承されるとすれば、その根底には宗教があるはずです

あるいは、宗教的同一観念を共有しています。

そして、その同一性をもった人々を中心に援護し、発展に努めてくださる目に見えない存在が

民族神としての『神』であり、宗教でしょう。

たとえば、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、日本神道・・・なども

本来は民族神としての『神』を語っています。

本来の仏陀やイエスにおいては民族神を超えていったと思われます。



7)自然力

特に、自然災害が頻繁な地域では、自然の威力も神として認識されます。

また、自然という表現形のうしろに”大いなる意思”としての『神』を感じています。

つまり、『神』とは自然を動かすに足る力を備えていて、直接に語らずとも

自然というキャンバスに様々に啓示を示している・・・ということになります。

その結果として、大きな被害を伴うような自然災害の発生は「統治者への警告」と

みなされます。



ちょうど「東北大震災3年目」を迎えましたが、当時であるならば民主党政権の方向性に対して

”大いなる意思”が災害という象徴的な警告を示したと考えられるのです


この意図で、当時の東京都知事だった石原新太郎氏が民主党にむけた言葉を

逆手にとって民主党が糾弾していましたが、当時の民主党首相には

本当に責任を取っていただきたい!!次第です。



大まかに7要素に分類してみましたが、現在の巷にある『神』を分類してみたつもりです。

けして、不敬の思いではありません。


次回は、ディバイン・サイエンスの立場から『神』の定義を考えてみます。




 「カミ ハ シン ダ」?1

  • 2014.03.06 Thursday
  • 23:35

高校に「倫理」という教科が1年間ありました。

今思い返せば、”哲学史”といえるような授業内容であったと思えます。



予習をせずにぶっつけ本番で授業に臨むわけですから、

そのほとんどは忘却のかなたですが、逆に映画でも見ているかのように

鮮明に思い返すことの出来る授業が2つあります。


そのひとつは『無知の知』の”ソクラテス”。もうひとつが”ニーチェ”です。



特に”ニーチェ”には、今も当時と全く同じ感想を抱いたままであることが

自分なりに記憶を鮮明にさせている所以だと思えます。



それが、倫理教諭の口から発せられた

かの有名な「カミ ハ シン ダ」というニーチェの言葉なのですが、

当時、予習もせずに授業に臨んでいた私の耳には

紛れもなく「神 は 真 だ」と聞こえ、そして「そうか・・・」と深く納得したことが

忘れられないのです。


ところが、授業が進むにつれて「神 は 死んだ」としか理解できないような内容に

なっていくことに、反論できないとはいえ、納得できない自分が居続けたわけで、

それが今もって続いています。



特別な信仰をもっていたわけではなかったのですが、

自分にとっては「猿が人間になった」という授業を耳で聞いて、

テストの答案には先生から期待されている答えをとりあえず書き込んだものの

「そんなはずはない」としか考えられない自分の確信が何処から来るのか?・・・

そのことの方が、はるかに興味深い問題のように感じ続けてきたわけです。



そのお陰か、その後になっても”神の存在証明”の是非がついているのか?いないのか?

その結果を知りたくて、耳を立てていたのだと思います。



そして、現時点で行き当たったことは非常に中立ではありますが、

神の存在の証明を成し遂げた者はいない・・・

神の不在の証明を成し遂げた者はいない・・・

そして、そのどちらも正しいのではなく、そのどちらかが正しい・・・



で、自分はどちらを信じるのか?という自己責任であるということです。



そもそも・・・・・

ニーチェ氏にとって「神」の定義は何だったのか?

それは私には解明不可能ですが、一般論的に使われてる「神」という言葉の定義を

考えてみる必要性は十分にあるでしょう。


次は、「神」という言葉の一般的な定義を考えてみます。





コラム:”常識”という”思考的共振フィールド” 〜DVD『奇跡のリンゴ』2〜

  • 2014.02.17 Monday
  • 22:38

日本各地の”大雪”で、思いがけない被害を受けられた方々にお見舞いを申し上げます。

東京方面は未だ降雪の予報が続いています。どうぞ、お気をつけ下さい。

***********

前文中の明日が、3日後になってしまいましたが続けます。


「DVD『奇跡のリンゴ』前記事の終わりに、次は〜”地力”という営み〜と題して、

作品中の”もうひとつの主役”であった”リンゴの木”と”地力”に

フォーカスしてみます。」・・・と結びましたが、

今はもう少し違った角度から試行錯誤してみたいと思っています。






この映画で、主人公・秋則が”自殺”という選択と引き換えに得た「飛躍的!発想の転換」とは、

自分の思考に巣食っている”常識”を破っていくことだった。というところまで書きました。

映画が取り上げている主人公・秋則の思考にも巣食っていた「リンゴ農家の常識」には、

大きく2つありました。


ひとつは、1000年以上も人工的な改良を続けてきたリンゴは、

科学農薬なしには栽培できない。・・・という、リンゴそのものの存在に対する常識でした。

もうひとつは、リンゴ畑の雑草は除去しなければならない。・・・という、リンゴの栽培環境に

対する常識
でした。



この2つが、リアルタイムにリンゴ栽培をしている農家にとっての”常識”つまり

疑い得ない事実”として描かれています。

そして、その2つに逆行しようとする主人公・秋則の熱意と祈りを込めた取り組みは、

”奇行”として近隣のリンゴ農家から排斥される様子がわかります。

何故”奇行”として排斥されたかといえば、彼自身が自己の常識を

刷新するだけの決定的確信に結びつくことができずにいたからだと分かります。

それが、映画では主人公・秋則が有機栽培の確信を確立し、さらなる”奇行”に進むと

彼の”奇行”には求心力が生まれていくのです。



この映画では”リンゴ農家”ですが、そのグループを構成する人々が何であれ

常識”というのは、実際人間の「思考的共振フィールド」と言い換えられるでしょう。

その「思考的共振フィールド」にたてば全く努力することなく、時間という連続性の中で

そのフィールドに立つ全ての人間が思考的共振状態になることが出来るのです


おそらく、この「共振状態」をおこす力は、3次元空間を形成する”法則”として

現存する
ものでしょう。そしてもしかしたら、ナポレオン・ヒル著『悪魔を出し抜け』で

ヒル氏が悪魔からきいた「ヒプノティック・リズム」と同義の法則かもしれないと考えます。




この「共振状態」は、いつの間にか、知らず知らずに、そして確実に作用します。が、

それにも実は条件がありました。それは、振動数時間です。

人間の思考の場合は、この振動数の「振」=「心」=「信」

なりたつと考えられます。


3次元世界において「時間」は”長い”か”短い”かの自然数の変化しかありませんが、

「振」=「信」=「心」においては本来100人100通りの自由性があるものです。


その「振動数」の自由性が、Aを”常識”とするフィールドA’に留まる限り、

時間の経過さえ与えれば知らず知らずに、そして当然のようにAを常識とする「振動数」A”に

固定されてしまうのです。これは、慣性の法則と同じ種類のものでしょう。

一端「振動数」がA”に固定されてしまうと、何らかの強い作用が「振動数」をかき乱すか・・

あるいはフィールドA’を離脱して、全く別の振動数BをもったフィールドB’に移動するか・・



いずれにしても、悪魔「ヒプノティック・リズム」で語ったように、

一端固定された「振動数」は慣性の法則によって時間のなかで綿々と継続されるのです

そして、この固定された「振動数」を慣性の法則から離脱させることが、

ドラッガー先生のイノベーション理念の刷新つまり常識の刷新にあたると考えます。



映画では、一方で複線として、2つのエピソードが語られます。

ひとつは、義理の父・征治が敗戦を迎えた南方で飢えをしのぐために作った

”雑草だらけの畑”に”無農薬”で栽培した「見事なナスの話」と「その畑の土」。

そしてもうひとつは、主人公の妻・美栄子が家計の支えに耕している僅かばかりの

終始”雑草”の生い茂った「野菜畑」と「その野菜の評判」。


主人公・秋則は、これらのエピソードから”地力”という情報に日常的に触れていますが、

結局10年の歳月をかけ、自殺未遂という窮地から復活するという”爆発的精神エネルギー”

によって、ようやく”地力”の存在を認識し、自己の常識をイノベーションしています。



この場面から、主人公・秋則は「りんご農家の常識」から「リンゴ農家としての常識」を

創造する新たな「振動」のフィールドを確立し、確実に移動しました。

彼自身の常識が一新されたのです。

それによって、”振動数”がかっわてしまった主人公・秋則の3次元世界の変化は、

彼の内的変化に共振した”リンゴの木”という存在によって顕現化した・・・・・のです。


つまり、主人公・秋則の思考フィールドが地力をはぐくむ自然界の営みと共振し、

やがてリンゴの生命力そのものとも共振したのです。





リンゴ畑の”地力”は、地力という1つの力学的力ではなく、様々な関係性の中に成り立つ

”相互協力の力”です。そして、それが”自然界の力”のあり方であり、

結局は本来内在する自然界の力を”人間の向上”という目的性に利用するという視点が

”自然農法”の思考フィールドであり、本来の科学なのだと思うのです。




「人間が作った力によって自然を支配する」という思考フィールドには、

自然界との共振はありえないでしょう。

さらに「この自然界そのものが、偶然の産物である」という思考フィールドには、

自然界の崩壊を招く”反作用の力”があると実感しています。



自然界」には、つねに「人間の常識を限界突破させるための様々な仕掛け」が

準備され、秘められていると思えるのです。

それを見つけ、人間の向上をめざす真摯な探求を「科学」とよんでいきたい・・・と

改めて思います。



最後に付け加えれば、「共振」という法則性は中立です。


結局、何に共振するのか?どのようなフィールドに立つのか?

この選択の自由を勝ち得ることの大切さを思います。





ご挨拶

  • 2014.02.17 Monday
  • 20:00
 
ブログへおいでくださって、本当に有難うございます。

大変、励みになっています。


未知数の分野のなかで、小さくなってしまう自分たちを

励ますために始めたブログです。

少しずつですが、前進し続けていきます。


2月末まで出張のため、ブログをお休みいたします。




3月から
、またよろしく御願いいたします。


コラム: 飛躍的!発想の転換 〜DVD『奇跡のリンゴ』 1 

  • 2014.02.14 Friday
  • 12:45
 
前回2度にわたって触れた「科学の神」や「隙間の神」に重なる思いで、

DVD『奇跡のリンゴ』を鑑賞しました。


まずは、この映画が実話にそった物語であったことを思い、

わが身にあてて感動と反省。そして、俳優陣の優れた演技に感動!でした。

主人公・秋則(安部サダオさん)
妻・美栄子(菅野美穂さん)
美恵子の父・征治(山崎勉さん)

農薬によってリンゴ農家の人体が蝕まれていた・・・・

その1人が妻・美栄子であったことが、主人公に”無農薬栽培”を決意させるのですが、

主人公は”リンゴ栽培のエジソン”的存在でした。



印象に残る映像は・・・・

父・征治がただひとり”リンゴの虫取り”をしていた横顔。

妻・美栄子の”日記”を読む目と、だんだんに小さく書かれていくチラシの日記。
  そして、病院の廊下に響いていた美栄子の嗚咽・・・(あの声は凄い)

主人公・秋則が口いっぱいの”土の味わい”に感動している姿。

そしてリンゴ達の、どうやって撮影したのか?と思わずにいられない”盛衰”


きっと、沢山の素晴らしい感想がネット上に溢れているでしょう・・・。




映画の中のアナウンスでは、もともとのリンゴの実は甘みがなく、

1000年以上も人の手によって改良を加えられ、守られて栽培されたリンゴの木は、

無農薬な”自然栽培”に戻すことは不可能である

という「結論」から始まりました。



福山ガリレオも「できない・・?!」に強く触発されますが、

生来の科学者気質の主人公・秋則も「どうしたら、できるか?」

命をかけていくことになりました・・。で、11年目に自然農法に成功するわけですが、

ナポレオン・ヒル氏のいわれるとおり「成功者の最大の共通項」は

失敗から学び」そして「成功するまでやり続ける



理想に向う粘り強い努力 と 地道な検証作業・・・・あきらめない根性・・そして資金力

ある意味で、生来の科学者は”金食い虫”あるいは”発展的浪費家”でしょう。

全財産を食いつぶして・・・初めて未知への突破口にたつ。そこから

主人公・秋則のように、結果(成功)にたどりつく”使命感”と”葛藤”が

生まれるのかもしれません。



けれども、それらもまた「成功」の扉をあける”本当の鍵”を手に入れるための

必要条件であり、”本当の鍵”は「飛躍的!発想の転換」そのものだったと

主人公は証言しているかのようでした。


ここでいう「発想の転換」は発展的段階がありました。

ひとつが、妻・美栄子の現状に対する「問題解決」のために選択した

「有機農法」という動機における初段階の「発想の転換」がありました。

つまり、化学薬品の農薬散布をしなければリンゴは育たない!という

”リンゴ農家の常識”に対する「発想の転換」でした。




そこから、その検証作業といえる様々な「代替農薬」の検証実践に没入して、

10年にわたる検証実践の度重なる失敗による経済的貧窮の果てに・・・

いよいよ「飛躍的!発想の転換」が待ち受けていたわけです。



けれども、物語が語る「飛躍的」の本当の意味は、

主人公・秋則が踏襲していた”リンゴ栽培”そのものの”常識”の中に

根源的失敗要因が潜んでいたことを突き止めた!
ところにありました。



ちょっと脱線しますが・・・・・・・・・・・・

現代版の『青い鳥』や『オズの魔法使い』です。

これらのストーリーの共通は、どこか遠いところではなく

「幸せは、日常の自分のすぐそばにある」
と伝え続けています。

これも、主人公たちにとっての「飛躍的・発想の転換」といえました。



ところで、この”日常”は日常であって日常ではない!”日常”だと考えられます。

つまりそれは「捜し求める」旅の終わりに出会う”日常”であるのです。



パラレル・ワールドのように、”努力の前の自分”と”努力の後の自分”は

必ずしも同じ世界に存在しているか・・・・は誰も分からないはずです

もし、主人公・秋則が中途挫折していたら・・・・彼を取り巻く全ての世界が

映画のストーリーとは全く異なっているはずです。

もし、もっと生半可な段階で自殺を選んだら・・・・自殺は成功していたかもしれません。



私たちが存在する3次元空間は、ひとつである!といいきれるかどうか?立証されていません。

それより、3次元空間さえも複数同時存在している世界観

まもなく常識になる可能性も大きくあります。


ある意味で”科学”とは、このパラレル・ワールドに挑戦する方法であるのかもしれません。




話をもとに戻します。


映画では”無農薬”とは「科学農薬を使わないこと」ではなく、

本来の生命力を復活させる」ことだった!わけです。



結局、「飛躍的・発想の転換」とは「自分のうちに潜む常識を変える」ことだったのだと、

今、確信しています。






明日は引き続き、 DVD『奇跡のリンゴ』 〜”地力”という営み〜

ここでは作品中の”もうひとつの主役”であった”リンゴの木”と”地力”に

フォーカスしてみます。




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Wornitz

〜ピタゴラスの手 HPより〜 Wornitz(ワーニッツ)を例えて言えば、泥水の入った容器をシェイクするようなものです。暫くするとシェイクされる前と同じように、その中身の比重に合わせて沈殿していきますが、しかし,どこをとっても「以前と同じではない」という状態、すなわち「秩序が変えられた状態」になっています。 泥水と違って私達の身体はもともと「より良くなろう」という性質が備わっており、Wornitz(ワーニッツ)によりシェイクされた後も無秩序に再構成されることはありません。常にベストな状態(秩序)を探りながら構成されていきます。そこに私達人間の素晴らしさを見ることができます。 その性質を最大限に活用させていただくことが、その時々の「最適な秩序」を構成する上でとても大切なことだと言えます。

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